段葛
構造
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若宮大路の道の中央に、幅9メートル︵5間︶、高さ45センチメートル︵1尺5寸︶の一段高くなっている他の道路では見られない特異な構造部分を指し、両側は石を重ねて押さえてある[2]。鎌倉時代に作られたものとみられているが、現在の段葛は中世当初に作られたものではなく、近世になってから幾度も作り直されたものである[2]。
過去は一の鳥居からの参道であったが、横須賀線の建設により、一の鳥居から二の鳥居の間が撤去された[注釈2]。徳川家綱が1668年︵寛文8年︶に寄進した各大鳥居[注釈3]は白い石造だったが、1923年︵大正12年︶の関東大震災で崩落してしまった。各大鳥居は1936年︵昭和11年︶に再建された一の鳥居以外、新しい朱塗りの鉄筋コンクリート造りとなっている。なお、八幡宮境内の鶴岡幼稚園隣にある源氏池前、鳩小屋撤去後の空き地には、この時に倒壊した大鳥居の部位︵二の鳥居なのか、三の鳥居なのかは不詳︶が保存されている。
また、鎌倉幕府が攻め込まれるのを防ぐために、一の鳥居から鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるようになっており、遠近法によって実際の距離より長く見えるようになっているが、この造りは改修が度々行われた現在でも踏襲されている。
段葛の方向は正確に南北ではなく、東へ約27度ずれていて、その線は鶴岡八幡宮から北方向へ伸ばすと、頼朝が何回も戦勝祈願・感謝を捧げた江戸・浅草寺へ達する。こうした配慮は後の徳川家康の久能山東照宮から富士山頂への線を北へ伸ばすと、日光東照宮へ達することにも見られる[4][5]。
沿革
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鎌倉時代は作道と呼ばれていた[6]。源頼朝などの武将が鎌倉に住むにつれて山を削り、少ない平地を増やして屋敷地を造成した。そのために山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に土砂や水が流れ込み、道がぬかるんで歩き辛くなったために、道から一段高い道を建設したのが段葛である。低湿地に石を置いて整えたものであることから置道︵おきみち︶と呼ばれていたこともあり、特定の地位や高貴な人のための通路であったと考えられている[2]。段葛に樹木が植えられたのは明治の中期︵明治初期頃の写真には存在しない︶[7]からで、1917年︵大正6年︶の改修工事までは、その種類も桜︵ソメイヨシノ︶ではなく、梅や松であったとみられている[8]。桜は1913年︵大正2年︶3月に国と県から植樹許可が下りて、158本が植えられている[9][10]。
戦前の二の鳥居前には青銅製の狛犬があったが、戦中に供出されたために長年台座だけになっているとされている[11]。だが、戦前の1935年︵昭和10年︶[12]、支那事変勃発後の1938年︵昭和13年︶[13]、太平洋戦争開戦後の1942年︵昭和17年︶[9]の写真でも狛犬は確認されておらず、もし青銅の狛犬が実在したのなら、設置期間は極めて短期間であった可能性が高い[注釈4]。なお、戦後の1961年︵昭和36年︶にコンクリート製の狛犬が奉納されている。
戦後、1961年 - 1962年︵昭和36 - 37年︶にかけて改修工事が行われ、左右が土手であった段葛に初めて石積みが整備された[14]。同時にこれまで木製だった灯籠は、石灯籠へと整備されている。
平成に入った2014年︵平成26年︶10月より、再び改修工事が行われ、2016年︵平成28年︶3月に完成した。通り初めには二代目中村吉右衛門らが参加した[15]。石積みはかさ上げされて高くなっている。
この平成の大改修で路面は舗装され、右画像のような土剥き出しの部分はなくなり、老木化した桜も全て植え替えられ[注釈5]、植え込みのつつじは取り払われて、石灯籠も一新されている[注釈6]。また以前は花見時期や祭りの開催時には提灯による電飾が飾られたが、現在では地面下に収容可能な隠蔽式の旗竿に国旗他を掲揚するだけとなっている。段葛も左右から渡る横断通路[注釈7]が大きく数を減じている[注釈8]。
段葛には桜の木が左右に多く植えられており、春になると桜の名所として沢山の花見客が訪れる[注釈9]。また、段葛脇の若宮大路で人力車に乗ると風を浴びながら花を見ることもできる[注釈10]。
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段葛(2020年1月)
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鶴岡八幡宮から見た段葛
脚注
編集注釈
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(一)^ 明治維新で寺社領が取り上げられ官有地になるが︵横須賀線建設のため、一の鳥居と二の鳥居間が破壊されたのは、この時期である︶、1917年︵大正6年︶1月に段葛の八幡宮境内編入が許可された[1]。
(二)^ 現在は高架になっているが、当初は平面交差で踏切があった。なお、下馬のガード設置は1910年︵明治43年︶10月30日である[3]。
(三)^ ﹁寛文八年戊申八月十五日御再興鶴岡八幡宮石雙華表﹂との碑文が、唯一オリジナルの一の鳥居に刻まれている。
(四)^ なお、日本で金属回収令が公布されたのは1941年︵昭和16年︶なので、長くても4年間程度しか存在しなかったことになる。
(五)^ 数は250本から180本へ大きく減じた。
(六)^ 以前の石灯籠は当初からあった白熱球型と、昭和40年代に日本コカ・コーラから寄贈された鉄製の水銀灯型が混在していたが、平成大改修で一新された灯籠は、新しいLEDタイプの石灯籠に統一された。なお、石灯籠には寄贈者の名前が参道側に刻印されているが、裏側に記された奉納日の大半が﹁平成二十八年三月吉日﹂なのに対して、古くからの出資者に関しては、初代石灯籠の奉献日﹁昭和三十七年七月吉日﹂のままとなっている。こうした灯籠には﹁江ノ島鎌倉観光株式会社﹂︵江ノ島電鉄の旧社名︶など、奉納当時の名がそのまま刻まれている。
(七)^ 昭和時代の横断通路は各出入り口に車から人員を保護するパイプ柵︵ガードレール︶が段葛脇の若宮大路側へ設けられていたが、平成大改修で車両通行の邪魔として撤去された代わり、各出入り口階段部中央にLED照明入りの柱を立てている。
(八)^ 以前はストレートに横断可能だったが、改修後は互い違いの千鳥配置になって通り抜けが困難になった。清川病院前横断歩道に設けられた自動車が利用可能だった開口部も車両乗り入れ禁止となり、車両の段葛途中の横断やUターンが不可能となっている。
(九)^ 平成の大改修でスポットライトが桜の各真下に備えられ、夜間にライトアップされるようになった。
(十)^ 段葛の上は車両通行禁止。
出典
編集- ^ 『鎌倉千年の歩み』, pp. 13–14.
- ^ a b c 『道路の日本史』, p. 84.
- ^ 『図説鎌倉年表』, p. 235.
- ^ 段葛がある若宮大路の方位(Travel.jp、2018年)
- ^ 久能山東照宮、富士山山頂、日光東照宮は一直線上にある(2020年)
- ^ 『鎌倉千年の歩み』, p. 68.
- ^ 『文士の愛した鎌倉』, p. 33.
- ^ 『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和:鎌倉』, p. 27.
- ^ a b 『目で見る鎌倉・逗子の100年』, p. 80.
- ^ 『文士の愛した鎌倉』, p. 42.
- ^ 『昭和の鎌倉風景』, p. 16.
- ^ 『写真アルバム:鎌倉・逗子・葉山の昭和』, p. 34.
- ^ 『目で見る鎌倉・逗子の100年』, p. 97.
- ^ 『鎌倉千年の歩み』, p. 67.
- ^ 『鶴岡』NO.123, p. 5.
参考文献
編集書籍
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●﹃ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和‥鎌倉﹄沢寿郎編、国書刊行会 1979年7月。
●﹃図説鎌倉年表﹄鎌倉市、1989年1月3日。
●﹃目で見る鎌倉・逗子の100年﹄木村彦三郎著、郷土出版社。ISBN 978-4-8766-5035-4。
●﹃文士の愛した鎌倉﹄文芸散策の会編、JTB、1997年9月1日。ISBN 4-533-02815-2。
●﹃写真アルバム‥鎌倉・逗子・葉山の昭和﹄いき出版、2014年4月22日。ISBN 978-4-904614-46-4。
●﹃昭和の鎌倉風景﹄竹腰眞一写真、冬花社、2014年6月。ISBN 978-4-925236-95-9。
●浅田勁﹃鎌倉千年の歩み‥段葛からのオマージュ﹄歴史探訪社、2017年1月18日。ISBN 978-4-8021-3044-8。
●武部健一﹃道路の日本史‥古代駅路から高速道路へ﹄中央公論新社︿中公新書2321﹀、2015年5月25日。ISBN 978-4-12-102321-6。
雑誌
編集- 『鶴岡』NO.123、鶴岡八幡宮社務所内編、2016年6月1日。