河野通有

鎌倉幕府御家人

  [2][3]

 

凡例

河野 通有
""
時代 鎌倉時代中期
生誕 建長2年(1250年)?
死没 応長元年7月14日1311年8月28日[1]、一説には元亨年間
別名 六郎、通義
戒名 長福寺殿天心紹普大居士
官位 対馬守、贈正五位
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王
氏族 河野氏
父母 父:河野通継
兄弟 河野通氏河野通泰土居通成
江戸重長娘、河野通久の娘
河野八郎通忠(嫡子)、河野九郎通盛、他多数
テンプレートを表示

出自

編集

21250

91226[4]


元寇での活躍

編集



41281

退





13111031321[5]退41324[6]

51916[7]

蒙古襲来絵詞の河野家

編集
 
蒙古襲来絵詞
 
河野通有供養塔

竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』には、季長が負傷した通有を見舞った様子が描かれており、絵巻の注釈に河野の家では合戦が落居しない間は烏帽子を着けないこと、通有の直垂平家との戦いで祖先の河野通信源氏の味方に参上した時着けていたものである事が描かれている。

縁側には通有の嫡子河野の八郎が座っており、庭には通有の旗指しが控えている。奧の妻戸は本来なかった所を絵師が書き誤ったものという注釈がある。

関連作品

編集

脚注

編集
  1. ^ 『予陽河野家譜』
  2. ^ 蒙古襲来絵詞 (模本) から引用”. 九州大学. 2020年11月22日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ 通有がまだ存命していた時期に書かれた、延慶本(延慶二、三年頃、1309-1310年)にも河野氏、その人物等を度々、"川野"と書き表している事などからも、当時から「かわの」と呼ばれていたことが窺い知れる。
  4. ^ 石野弥栄 2015, p. 35-41.
  5. ^ 石野弥栄 2015, p. 96-97.
  6. ^ 石野弥栄 2015, p. 42-45.
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41

参考文献

編集
  • 石野弥栄「鎌倉期における河野氏の動向」(『国学院高等学校紀要』19輯、1984年)
    • 改題所収: 石野弥栄「鎌倉期河野氏の動向と鎌倉政権」『中世河野氏権力の形成と展開』戎光祥出版〈戎光祥研究叢書〉、2015年。ISBN 9784864031455全国書誌番号:22597397 
  • 石野弥栄「鎌倉~南北朝期河野氏の遠隔地所領支配」『中世河野氏権力の形成と展開』(戎光祥出版、2015年)(原論文は1986・1989・1990各年)

関連項目

編集