泰勝寺跡
龍田山泰勝寺後の史跡
泰勝寺跡︵たいしょうじあと︶は、熊本県熊本市中央区黒髪の立田自然公園内にある国指定の史跡。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Taisyojiato.jpg/220px-Taisyojiato.jpg)
泰勝寺跡
同地には江戸時代を通じて肥後熊本藩主・細川家の菩提寺であった﹁龍田山泰勝寺﹂︵りゅうでんさんたいしょうじ︶が建っていたが、明治初年の神仏分離令発布後に廃寺となり、同家の別邸に改められた[1]。平成7年︵1995年︶11月28日、同じく細川家菩提寺であった妙解寺︵みょうげじ︶跡︵熊本市西区・北岡自然公園内︶と共に﹁熊本藩主細川家墓所﹂︵くまもとはんしゅほそかわけぼしょ︶の名称で国から史跡に指定された[2]。一般的に﹁泰勝寺跡﹂というが、細川家立田別邸が正式名称である[3][4]。敷地は細川家の屋敷部分、庭園、墓地とに分かれている[3]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5f/Taisyojiato.jpg/220px-Taisyojiato.jpg)
歴史
編集「細川氏」も参照
創建から幕末まで
編集
泰勝寺は、小倉藩主・細川忠興︵三斎︶が父・幽斎の追善のため、慶長11年︵1611年︶3月に小倉に泰勝院[5]を建立したのがその始まりで、同院は後に熊本藩主・加藤家が改易され、寛永9年︵1632年︶に細川家が同藩へ転封されるに合わせて、八代城に隠居した三斎により小倉から八代へ移された[1]。
一方、熊本城主になった忠利も、寛永14年︵1636年︶に立田山の山麓に祖父・幽斎と祖母・麝香の方および母・玉子を祀る寺を建立し、これも泰勝院と命名した[1]。忠利死後、藩主の座を継いだ光尚は京都・妙心寺より大淵玄弘和尚を招いて泰勝院住職とし、正保3年︵1646年︶には、玉子の隣に三斎の墓を営んだ[1][6]。光尚はその後、八代の泰勝院を廃すると立田山の泰勝院に併合して﹁瑞雲山泰勝寺﹂と改め、さらに綱利の代に山号を﹁龍田山﹂に改称した[1]。
なお、忠利以降9代・治年までの藩主は花岡山山麓に建立された妙解寺に葬られたが、10代・斉茲や11代・斉樹、13代・韶邦、最後の藩主・護久は再び泰勝寺に墓が建てられている[2]。
明治以降
編集明治初年の神仏分離令に伴い、細川家は菩提寺であった妙解寺と泰勝寺を廃して同家別邸とし[1]、泰勝寺の本堂を神式の祠堂に改めた。以後は細川家立田別邸と称するのが正式であるが、一般には泰勝寺跡で通っている[3]。昭和30年(1955年)から、熊本市が細川家より庭園部分を借り受け、立田自然公園として一般に開放している[3]。
事件
編集2023年(令和5年)2月2日、細川家の初代藤孝(幽斎)夫妻と2代忠興・ガラシャ夫妻の墓「四つ御廟」に、何者かが液体をかけたような跡が見つかった。熊本市は県警に被害届を提出。人為的に汚された可能性が高いとみている[7]。
見どころ
編集参観案内
編集- 交通: 公共交通機関利用の場合:バス 交通センターから子飼経由大津・武蔵ヶ丘方面行き乗車、立田自然公園入口下車徒歩10分
- 自動車利用の場合: 熊本インターから国道57号線を熊本市街方面へ、県道337号線へ入り立田自然公園手前、計25分
- 利用時間 8時30分より、駐車場(30台)、トイレあり。
- 料金 大人 200円、小中学生 100円
- 所在地 熊本市黒髪4丁目610
参考文献
編集- 『熊本県大百科事典』1982年 熊本日日新聞 p. 511
脚注
編集
(一)^ abcdefghi泰勝寺︵たいしょうじ︶ 熊本市 - 熊本県庁、2014年3月2日閲覧。
(二)^ ab文化遺産データベース 熊本藩主細川家墓所、2014年3月2日閲覧。
(三)^ abcd浜田善利﹁熊本市の医薬および自然史関係史蹟﹂﹃薬史学雑誌﹄第17巻第1号、日本薬史学会、1982年、48-53頁。
(四)^ 熊本県大百科事典[1982:511]
(五)^ 幽斎の院号でもある。
(六)^ 幽斎夫妻・三斎夫妻の廟は、特に﹁四つ御廟﹂と呼ばれる。
(七)^ ﹁熊本藩主細川家の墓に赤い液体 熊本市の国史跡﹁四つ御廟﹂ 市は被害届を提出へ﹂熊本日日新聞︵熊本日日新聞社︶ニュース・話題︵2023年2月9日︶
(八)^ 泰勝院
開祖・大淵玄弘和尚が引導を渡したという説もある。
関連項目
編集- 熊本藩
- 泰勝寺 (八幡市)(松花堂泰勝寺)
- 拝聖院
- 桜山神社 (熊本市)