源兼澄
平安時代中期の貴族・歌人
源 兼澄 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 兼隆 |
官位 | 従五位上、加賀守 |
主君 | 一条天皇→三条天皇 |
氏族 | 光孝源氏 |
父母 | 父:源信孝、母:不詳 |
妻 | 大中臣能宣の娘、藤原相如の娘 |
子 | 頼兼、藤原周頼室、右衛門 |
経歴
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東宮・師貞親王︵のち花山天皇︶の東宮帯刀を務める。
一条朝にて陪膳を務め、永延2年︵988年︶には六位蔵人に左衛門尉検非違使尉を帯びていた。式部丞を経て、永延3年︵989年︶従五位下に叙爵する。のち、若狭守・加賀守と受領を歴任して、位階は従五位上に至った。若狭守在任中の長徳3年︵997年︶に宋の商人である朱仁聡から暴行事件を起こされている。
歌人として活躍し、永観元年︵983年︶一条大納言為光家障子歌、寛和元年︵985年︶道兼家歌会、長保3年︵1001年︶東三条院四十賀屏風歌、長保5年︵1003年︶藤原道長家歌合などに出詠。寛弘9年︵1012年︶三条天皇の大嘗会では悠紀方の和歌を詠進する。
﹃拾遺和歌集﹄以下の勅撰和歌集に11首が採録されている。大中臣輔親・清原元輔・安法・恵慶・藤原実方ら周囲の歌人とも多く交流した。家集に﹃兼澄集﹄がある。
官歴
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注記のないものは﹃小右記﹄による。
●永延元年︵987年︶3月26日‥見右衛門尉。6月6日‥見六位蔵人
●永延2年︵988年︶ 正月20日‥見左衛門尉。正月29日‥兼式部丞、去右衛門尉?[1]
●永延3年︵989年︶ 正月5日‥従五位下?[1]
●長徳3年︵997年︶10月28日‥見若狭守
●長保3年︵1001年︶ 正月15日‥見前若狭守[2]
●長和元年︵1012年︶4月9日‥見前加賀守
系譜
編集『尊卑分脈』による。