源義時
平安時代後期の武将。源義家の五男または六男。六位、左兵衛尉。石川・万刀の祖。子に源義盛︵長男、大学助︶、平賀有義︵平賀二郎、源義家流平賀氏の祖、子に平賀義資︵四郎︶、平賀
源 義時(みなもと の よしとき)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の五男または六男。
源義時 | |
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時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天治2年(1125年) |
別名 | 陸奥五郎または六郎 |
墓所 | 大阪府南河内郡太子町源義家霊廟 |
官位 | 六位、左兵衛尉 |
氏族 | 河内源氏、石川源氏 |
父母 | 父:源義家 |
兄弟 | 義宗、義親、義忠、義国、義時、義隆、輔仁親王妃、源重遠室 |
子 | 義盛、平賀有義、義基、義広、義資、義長 |
河内源氏本拠地を相続 編集
父の八幡太郎義家が死去すると兄、義忠が家督を相続し源氏の棟梁となる。義忠が都に戻るのと入れ替わりに河内源氏の本拠地、河内国石川を守るようになると言われているが具体的な史料は確認できない。︵長兄の義宗は夭折。次兄の義親は乱を起こし討伐された。義国は関東で叔父の義光と合戦し勅勘を蒙り謹慎︶。義忠の死後、義時は兄の跡をついで源氏の棟梁になることを望んだが果たされなかった。左兵衛尉、官位は六位であったということだけが伝わっている︵玉葉など後世になっていわれるようになったが当時の史料では確認できない︶。また、陸奥五郎または六郎と称したことがあるが、陸奥守であったわけではなく、父の義家の陸奥守に由来した名乗りであるようである。