片岡松燕
日本の俳優
片岡 松燕︵かたおか しょうえん、1895年2月15日 - 1943年6月10日︶は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元女形である[1][2][3][4]。本名は加藤 一︵かとう はじめ︶[1][2][3]だが、加藤 始︵読み同じ︶の説もある[4]。初代中村福圓、四代目片岡我童門下の歌舞伎役者から映画界に転向、実弟・尾上華丈、尾上松葉らと共に日活京都撮影所、独立後の片岡松燕プロダクションで活躍した名女形、および二枚目スターとして知られる[1]。
かたおか しょうえん 片岡 松燕 | |
---|---|
![]() 1925年の写真、満30歳。 | |
本名 | 加藤 一(かとう はじめ) |
生年月日 | 1895年2月15日 |
没年月日 | 1943年6月10日(48歳没) |
出生地 |
![]() |
身長 | 163.6cm |
職業 | 俳優、元歌舞伎役者、元女形 |
ジャンル | 歌舞伎、剣劇、劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画、トーキー) |
活動期間 | 1900年 - 1938年 |
配偶者 | 有 |
著名な家族 |
尾上華丈(実弟) 尾上松葉(実弟) 片岡栄二郎(甥) 島田秀雄(甥) |
主な作品 | |
『豪傑児雷也』 『恋の四千両』 |
来歴・人物
編集
1895年︵明治28年︶2月15日、兵庫県神戸市に生まれる、とされている[1][3][4]。﹃現代俳優名鑑﹄︵揚幕社︶など一部の資料によれば、生年月日は上記の通りだが、出生地は大阪府大阪市南区高津町九番丁︵現在の同市同区道頓堀1丁目、高津2・3丁目、日本橋1・2丁目の各一部︶である旨が記されている[2]。実父は歌舞伎など舞台の床山を職としていた。また、実弟は映画俳優尾上華丈︵本名嶋田喜一郎、1898年 - 1969年︶、尾上松葉︵本名加藤淸、1909年 - 没年不詳︶で、甥も同じく映画俳優片岡栄二郎︵本名嶋田助一郎、1918年 - 1983年︶、島田秀雄︵生年不詳 - ︶であった。
1900年︵明治33年︶、満5歳の時に歌舞伎役者初代中村福圓の門下となり、兵庫県神戸市にあった大黒座︵後の八千代劇場、1882年 - 1960年、現存せず︶での公演﹃佐倉宗吾﹄で實川正朝、七代目市川團蔵と共演、初舞台を踏む[1][2][3][4]。尋常小学校に通学する傍ら、初世福圓と共に各地を巡業していたが、1915年︵大正4年︶に歌舞伎の名女形としてならした四代目片岡我童︵後の十二代目片岡仁左衛門︶の門下に転じ、1917年︵大正6年︶11月、大阪府大阪市中央区にあった中座︵1661年 - 1999年、現存せず︶で行われた片岡仁左衛門記念興行にあたり、片岡松燕を襲名して同一座の幹部となり、以後も四世我童改め十二世仁左衛門と共に各座に出演した[1][2][3][4]。
1920年︵大正9年︶、十二世仁左衛門のもとを離れ、映画俳優尾上松之助の招聘により、日活京都撮影所に入社する[1][2][3][4]。同年9月19日に公開されたサイレント映画﹃尾張三郎丸 前篇﹄で映画デビューを果たす[1][3]。以後、片岡長正、市川家久蔵、中村歌枝らと共に同所の女形俳優として活動するが、中でも翌1921年︵大正10年︶2月1日に公開された牧野省三監督映画﹃豪傑児雷也﹄では美青年・高砂勇美之助を演じたほか、同年3月10日に公開された牧野省三監督映画﹃実録忠臣蔵﹄では大石主税を演じるなど、他の女形専門の俳優とは異なり、男性役として出演することもしばしばあった[1][2][3][4]。その後、1923年︵大正12年︶9月1日に関東大震災が発生し、やがて松之助映画にも本格的に女優が採用されるようになると、松燕は正式に男優に転向、1925年︵大正14年︶5月31日に公開された池田富保監督映画﹃落花の舞 前篇﹄や、同年8月31日に公開された高橋寿康監督映画﹃鞍馬天狗 前篇﹄などに出演し、気品のある美しい二枚目俳優として活躍した[1][3][4]。
1926年︵大正15年︶6月、会社側の了解を得て、日活を円満退社する[1][4]。同年10月8日、かつて東京府豊多摩郡大久保百人町︵現在の東京都新宿区百人町︶に映画撮影所を設けていたM・パテー商会、後に日活に統合されてから1915年︵大正4年︶にM・カシー商会を立ち上げた実業家梅屋庄吉の支援を得て、片岡松燕プロダクションを設立する[1][4][5]。大正時代最末期である同年12月10日、独立第一回作品となる高浜順監督映画﹃大望﹄を発表[1][4]。以後、翌1927年︵昭和2年︶までに全10本のサイレント映画を製作、松燕自身も女形兼男優として主演を務めたのち、同プロは間もなく解散した[1][4]。
﹃現代俳優名鑑﹄など一部の資料によれば、大阪府大阪市南区高津町九番丁7番地︵現在の同市同区道頓堀1丁目、高津2・3丁目、日本橋1・2丁目の各一部︶から、東京府東京市下谷区中根岸町32番地︵現在の東京都台東区根岸3・4丁目︶に住み、身長は5尺4寸︵約163.6センチメートル︶、体重は13貫︵約48.8キログラム︶、趣味は墨絵、三味線であり、嗜好物は鰻、中華料理、鮭、煙草である旨が記されている[2][3][4]。
解散後は実演に転向し、東京府東京市浅草区︵現在の東京都台東区︶にあった宮戸座︵1887年 - 1937年、現存せず︶など、各座に出演していた[1][4]。が、この間も1937年︵昭和12年︶12月21日に公開された稲垣浩監督映画﹃飛竜の剣﹄をはじめ、同年12月31日に公開されたマキノ正博監督映画﹃血煙高田の馬場﹄、翌1938年︵昭和13年︶3月1日に公開された辻吉郎監督映画﹃加賀百万石﹄と、かつて所属していた日活京都撮影所製作のトーキーに特別出演した記録が残っている[1][4]。
1943年︵昭和18年︶6月10日、死去した[1]。満48歳没。
おもなフィルモグラフィ
編集- 『豪傑児雷也』:監督牧野省三、製作日活京都撮影所、配給日活、1921年2月1日公開 - 高砂勇美之助
- 『実録忠臣蔵』:監督牧野省三、製作日活京都撮影所、配給日活、1921年3月10日公開 - 大石主税
- 『仮名手本忠臣蔵』:監督牧野省三、製作日活京都撮影所、配給日活、1921年6月9日公開 - 顔世御前
- 『渋川伴五郎』:監督築山光吉、製作日活京都撮影所、配給日活、1922年5月1日公開
- 『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』:監督池田富保、製作日活京都撮影所、配給日活、1926年4月1日公開 - 神崎与五郎則休
- 『大望』:監督高浜順、製作・配給片岡松燕プロダクション、1926年12月10日公開 - 矢部求女
- 『恋の四千両』:監督横田豊秋、製作・配給片岡松燕プロダクション・森野五郎プロダクション、1927年7月1日公開
- 『飛竜の剣』:監督稲垣浩、製作日活京都撮影所、配給日活、1937年12月21日公開 - 将軍綱吉
- 『血煙高田の馬場』:監督マキノ正博・稲垣浩、製作日活京都撮影所、配給日活、1937年12月31日公開 - 松平右京太夫
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 片岡松燕 - 日本映画データベース
- Shoen Kataoka - IMDb(英語)