牧野康哉

江戸時代後期の藩主 (1818-1863)

牧野 康哉(まきの やすとし)は、信濃小諸藩の第9代藩主、江戸幕府若年寄越後長岡藩分家牧野家11代。

 

凡例

牧野康哉
時代 江戸時代後期 - 末期
生誕 文政元年11月17日1818年12月14日
死没 文久3年6月13日1863年7月28日
改名 修橘・徳橘(幼名)、康哉
戒名 篤信院殿譲誉義山礼興大居士
墓所 長野県小諸市の牧野家墓地
官位 従五位下、四品、遠江
幕府 江戸幕府 若年寄
信濃国小諸藩
氏族 牧野氏
父母 父:牧野貞幹、養父:牧野康命
兄弟 貞一康哉貞勝
正室:松平信豪の娘
継室:朽木綱條の娘
康済本多忠直康保
娘(牧野忠泰継室のち牧野忠毅正室)
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経歴

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18181017西831832

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門閥の平均化

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概要

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天保年間後半に門閥の平均化の作業が行われている。足高制はわずかな例外に留め、家柄に応じて支給する持高を引き下げて、役職手当を整備するという内容であった。

これにより、有能な人材が登用しやすくなった一方で、お家騒動がおきやすい土壌を醸成してしまったことは、否めない。

不祥事続きの大胡以来[1]家臣・木俣家を除き、結果的に順送り人事

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小諸馬場町大火(現在の小諸市古城二丁目)で知られる木俣家以外は、天保年間末ごろを基準とすれば、用人格以上の格式を持つ家については、次のようなことが言える。

天保年間以降から、廃藩までの期間に、用人格以上の家は、用人職以上に短期間でも、1度は、就任していることが確認できる。つまり、不祥事・非行を繰り返した木俣家(重郎右衛門・多門家系)を例外とすれば、順送り人事によって、栄誉的に花道が作られていたことがうかがわれる。下記掲載の江戸武鑑にある木俣熊之進とは、当家から分家として分出された家である。

万延元年の江戸武鑑による主要家臣

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1860

(

2



372








系譜

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父母

正室、継室

子女

脚注

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  1. ^ 小諸家臣木俣氏の先祖は、1590年から1616年までの期間、藩主牧野家の先祖は上野国大胡城主であった。この期間に家臣となった家である。上級士分としては古くから藩主牧野氏の先祖に仕えていなかった家。