甲子園 (地名)
兵庫県西宮市南東部の地域名
〖西宮七園〗 | |
![]() 甲子園駅西口 | |
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市町村 |
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隣接自治体 |
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旧自治体 | 武庫郡鳴尾村 |
開発期間 | 1924年 |
概要
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野球場・阪神甲子園球場の所在で著名である。単に﹁甲子園﹂というと同球場を指すことが比較的多い。このほか、武庫川女子大学の学舎である甲子園会館︵旧甲子園ホテル︶など、大正~昭和期の歴史に残る近代建築が多く残存する[注釈2]。
西宮七園と呼ばれる高級住宅街の一つである。﹁甲子園﹂の名前が全国に浸透すると、北側・西側にも甲子園を含む地名が増えていった。
地理
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1951年に西宮市に編入されるまで武庫郡鳴尾村[注釈3]であったこの地域には、かつて武庫川の支流である枝川・申川︵さるがわ︶という河川が存在し[注釈4]、隣村との境界線になっていた。
国道2号の上甲子園交差点より阪神甲子園駅方向へ伸びる幹線道路︵兵庫県道340号浜甲子園甲子園口停車場線︶は、なだらかにカーブしている。これはそのまま旧枝川の水路跡であり、この道路の両側︵旧枝川河川敷︶に住宅地が造成された。旧申川の水路跡にも、幹線道路にこそなっていないものの道路︵阪神甲子園球場西側の、兵庫県立西宮今津高校にのびている道路︶が整備されている。
開発史
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阪神国道︵現在の国道2号︶整備に合わせ、武庫川の氾濫を防ぐ改良工事が兵庫県により行われることになった。このときの資金繰りとして、武庫川の改良により枝川・申川を廃川し、河川敷跡を県から阪神電気鉄道に410万円で売却することとなった。なお、この410万円は、約310万円が武庫川改良工事に、約100万円が国道整備に充当された。
阪神電気鉄道は、購入した河川敷跡73,920平方メートルに、住宅地および行楽地を開発した[1]。当時阪神間の大規模宅地開発の多くは専門のデベロッパーが関与していたが、甲子園は住宅地の一部宅地開発を大林組に委託したほかは、阪神電気鉄道が開発した。同地は、1928年︵昭和3年︶から第1回住宅地分譲を阪神本線以北の旧枝川沿いで実施し、第2回住宅地分譲は1930年︵昭和5年︶に実施された。阪神本線南側では、浜甲子園健康住宅地と南甲子園経営地が分譲された。南甲子園地区は1937年︵昭和12年︶頃にほぼ整備されるに至る[2]。
甲子園の住宅地は旧枝川の廃川敷に沿って、中甲子園、上甲子園、七番町、浜甲子園と順次開発され[3]、一番町、二番町……以後、九番町までの住宅地が造成された。また、廃川敷以外でも浜甲子園健康住宅地、南甲子園が開発された︵これが住所表記の地名にも採用されたのは西宮市に編入されて以後のことである︶。
1924年、七番町の西側︵旧枝川・旧申川の分流点あたり︶に現在の阪神甲子園球場となる大運動場[注釈5]が開設された。その年が干支でいう甲子︵きのえね︶の年であったことから、このとき一帯が﹁甲子園﹂と名付けられた[注釈6]。
1928年、博覧会を開催。翌年、旧枝川河口には甲子園娯楽場︵のちの阪神パーク︶が開園した[注釈7]。1930年には甲子園ホテル、1937年には、観客席のある国際庭球場がオープンした。
学校も誘致しており、甲陽学院高校がキャンパスを構えた︵のちに移転し、跡地には東半分に甲子園東洋ビルが建設され、2020年現在コロワ甲子園が核テナントとなっている。西半分は甲陽学院と同じ経営母体の白鹿グループが1992年にホテルを設置した[注釈8]︶。
甲子園へのアクセス駅として、阪神電気鉄道は1924年に甲子園駅を設置した。また、同社により甲子園線が1926年に浜甲子園まで、1930年には中津浜まで敷設された。甲子園線は、1975年に廃止されるまで、阪神電気鉄道自らが開発した住宅地及び、行楽地への輸送機関として重責を担った。
1934年に北の武庫郡瓦木村にできた鉄道省東海道本線︵現在はJR西日本東海道本線。愛称・JR神戸線︶の新駅は、当初﹁瓦木駅﹂と命名される予定であったが、甲子園からの乗客誘致を図って甲子園口駅を名乗ることになった。この駅周辺の住所表記の地名も1950年から﹁甲子園口﹂となった。
1934年9月21日、室戸台風の直撃を受け、浜甲子園方面が一面の海と化すなど甚大な被害を受けた[4]。
商標登録
編集施設・名所・旧跡等
編集ギャラリー
編集外部リンク
編集- ウブスナ - 西宮いいとこ情報発信サイト
- 写真でたどる、大正・昭和の甲子園球場界隈 - 甲子園の歴史 - 西宮流 (にしのみやスタイル)
- マンボウトンネル(まんぼうトンネル) - 西宮流 (にしのみやスタイル)
脚注
編集注釈
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(一)^ 上甲子園、甲子園網引町、甲子園浦風町、甲子園洲鳥町、甲子園砂田町、甲子園高潮町、甲子園浜田町、甲子園春風町、甲子園三保町、甲子園六石町、甲子園一番町、甲子園二番町、甲子園三番町、甲子園四番町、甲子園五番町、甲子園六番町、甲子園七番町、甲子園八番町、甲子園九番町、甲子園口、甲子園口北町、甲子園町、甲子園浜、浜甲子園、南甲子園。
(二)^ なお、阪神甲子園球場自体も、この地域に多く存在する大正期の近代建築のひとつである。
(三)^ 但し、一部は今津町や瓦木村にまたがる
(四)^ 枝川・申川とも、それ自体が武庫川の氾濫により誕生した川であった。1557年の氾濫で、武庫川から枝分かれする形の川が形成され、これが﹁枝川﹂と呼ばれるようになった。さらに1740年の氾濫での枝川の分流が川となり、この年が十二支で申年だったことから﹁申川﹂と呼ばれるようになった。なお、枝川・申川の形成からも分かるとおり、当時の武庫川は左岸よりも右岸に氾濫する傾向にあった。これについて詳細は明らかではないが、地理的要因のほか政治的要因もあったとの説もある。
(五)^ 当時近所にあった鳴尾球場︵元は鳴尾競馬場で、競馬場としての流れは阪神競馬場に通じている︶の代替の役割もあった。
(六)^ 西宮七園で﹁甲﹂が付く地域は4つあるが、他の3つ︵甲東園・甲風園・甲陽園︶と異なり甲子園だけは甲山を由来としていない。
(七)^ 戦後の1950年に八番町︵現在はららぽーと甲子園のある場所︶に移転している。
(八)^ 甲子園都ホテル。2020年現在はホテルヒューイット甲子園。現在、甲陽学院高等学校がテーブルマナー講習会をノボテル甲子園で行っているのは、このときの地縁ならびに経営母体の繋がりによるものである。
(九)^ 同様のトンネルがJR神戸線西宮駅の西︵平松町︶と大谷町にあり、平松町のトンネルは谷崎潤一郎の小説﹃細雪﹄にも登場する[7]。
奥畑は、その山側の停留場のうしろの方のマンボウから出て来て、国道を北から南へ横切って、浜側の停留場に立つのであった。︵お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの短いようなものを指すので、今のガードなどという語がこれに当て嵌まる。もと阿蘭陀語のマンプウから出た︵中略︶阪神国道の西宮市札場筋付近の北側には、省線電車と鉄道の堤防が東西に走っており、その堤防に、ガードと云うよりは小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらいな隧道が一本穿ってあって、それがちょうどそのバスの停留場の所へ出るようになっている。
—谷崎潤一郎『細雪(下)』[8]
出典
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(一)^ 阪神間モダニズム実行委員会編﹃阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期‐昭和15年の軌跡﹄淡交社、1997年。34-36頁
(二)^ 坂本勝比古. “住宅総合研究財団 研究年報 No.21、1994年﹃阪神間の住宅地形成に関する基礎的研究︵2︶-近代日本の大都市郊外住宅地形成過程-﹄”. 2024年7月22日閲覧。
(三)^ 八木則行. “都市住宅学 2017年 2017 巻97号 67-71﹃甲子園地区のまちづくり﹄”. 2024年6月28日閲覧。
(四)^ 高潮の阪神沿道で三百人行方不明﹃大阪毎日新聞﹄昭和9年9月22日号外︵﹃昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年﹄本編p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(五)^ ﹁甲子園﹂を商標登録 阪神電鉄、イベント開催には影響なし - 日本経済新聞、2012年12月2日
(六)^ 阪神電鉄﹁甲子園﹂商標権取っていた - デイリースポーツ、2012年12月21日
(七)^ 岡田広一﹃文学作品に記録された近畿の鉄道と都市景観-神戸・阪神間を中心に﹄p.49
(八)^ 谷崎潤一郎﹃細雪︵下︶﹄新潮文庫. pp.74-75, 1939︵昭和14︶年