白峰駿馬
幕末の武士、実業家
1847年︵弘化4年︶、長岡藩士・鵜殿瀬左衛門の三男に生まれる。1862年、江戸に行き、異父兄の鵜殿団次郎と交流があった勝海舟の門下生になる。1864年︵元治元年︶、長岡藩を脱藩して神戸海軍操練所に参加するが、神戸海軍操練所の解散後は坂本龍馬が結成した亀山社中・海援隊に参加して太極丸の船将として活躍する。龍馬暗殺直後には、殺害現場の近江屋に急行している。
1869年︵明治2年︶、菅野覚兵衛と共にアメリカ合衆国に留学し、ラトガース大学やニューヨーク海軍造船所にて造船術を学ぶ。1874年︵明治7年︶に帰国すると海軍省の主船寮主船小匠司に就任し、洋式帆船白峰丸︵200トン︶を建造した[1]。
1878年︵明治11年︶海軍省を辞し白峯造船所を経営した。1909年︵明治42年︶2月2日、勲六等瑞宝章を下賜される。同年4月1日、死去。享年63。墓所は青山墓地。
白峰駿馬を描いた作品 編集
小説 編集
参考文献 編集
- 『慶應義塾五十年史』
脚注 編集
- ^ 『工業(1)』工業改良協会出版部工業学院、4、47頁。