日光社参
江戸時代に将軍家が日光東照宮に参拝した行事
(社参から転送)
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行程
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主に徳川家康の命日である4月17日に参拝するように実施された。主に用いられた行程は次の通りである。
江戸城を発つと、まず日光御成街道︵日光御成道︶を進み、初日は岩槻城に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道︵日光道中︶に入り、2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊したのち、4日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程であった。
家綱の頃までの復路では、今市宿から壬生通り︵日光壬生道、日光西街道︶に入り、宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもあった。
日光社参のコース
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日光社参には主に以下の3つのコースがあったといわれている[1]。
(一)日光御成道を通り、幸手で日光街道に入り、日光に至る。帰路も同コース。このコースが一番多く使われた[2]。
(二)往路は先のコースと同じ。復路は今市より壬生道に入り、鹿沼・壬生を経て小山で日光街道に入り、以下先のコースと同じ[2]。
(三)慶安2年︵1649年︶、世子家綱社参の場合だけで、日光街道を千住を経て越ヶ谷に至る。日光街道はこれより春日部・杉戸を経て幸手に向かうが、別路をとって岩槻に行き宿泊、以下日光への経路および帰路は1と同じという[2]。
意義
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日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば、安永5年︵1776年︶の将軍・家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた。
これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった。
なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう。
年表
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●慶長8年︵1603年︶ 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く。
●元和2年︵1616年︶ 4月に家康没。
●元和3年︵1617年︶ 3月に日光東照宮竣工。4月に将軍徳川秀忠が社参。
●元和5年︵1619年︶ 10月に将軍秀忠が社参。
●元和8年︵1622年︶ 4月に将軍秀忠が社参。
●元和9年︵1623年︶ 4月に大納言徳川家光が社参。
●寛永2年︵1625年︶ 7月に将軍家光が社参。
●寛永5年︵1628年︶ 4月に大御所秀忠、将軍家光が社参。
●寛永6年︵1629年︶ 4月に将軍家光が社参。
●寛永9年︵1632年︶ 4月に将軍家光が社参︵服喪により遥拝︶。
●寛永11年︵1634年︶ 9月に将軍家光が社参。
●寛永13年︵1636年︶ 4月に将軍家光が社参。
●寛永17年︵1640年︶ 4月に将軍家光が社参。
●寛永19年︵1642年︶ 4月に将軍家光が社参。
●慶安元年︵1648年︶ 4月に将軍家光が社参。
●慶安2年︵1649年︶ 4月に大納言徳川家綱が社参。
●寛文3年︵1663年︶ 4月に将軍家綱が社参。
●享保13年︵1728年︶ 4月に将軍徳川吉宗が社参。
●安永5年︵1776年︶ 4月に将軍徳川家治が社参。
●天保14年︵1843年︶ 4月に将軍徳川家慶が社参。最後の日光社参。
●慶応3年︵1867年︶ 将軍徳川慶喜が大政奉還。
脚注
編集- 注釈
- 出典
参考文献
編集- 阿部昭 『街道の日本史15 日光道中と那須野ヶ原』 吉川弘文館、2002年
- 古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年
- 竹内 誠 編 『徳川幕府事典』 東京堂出版、2003年
- 中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察(第3報)-日光社参の場合」『駒澤地理』15 / 駒澤大学文学部地理学教室、駒澤大学総合教育研究部自然科学部門 編、1979年、55-56頁
- 日光街道ルネッサンス21推進委員会 編 『栃木の日光街道』 下野新聞社、2005年
- 日光市公式ホームページ 旧日光市の歴史年表