立石岐
経歴
編集
亀岡藩の郷士小野某の三男として備中国浅口郡、のちの船穂村︵船穂町を経て、現倉敷市船穂町船穂︶に生まれる[3]。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ[3]。19歳の時、美作津山藩領西西条郡二宮村︵苫田郡二宮村を経て、現津山市二宮︶の豪農立石正介の養嗣子となった[3]。父の正介は大橋敬之助︵立石孫一郎︶とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した[3]。
1878年︵明治11年︶中島衛らと津山に共之社を結成し養蚕業の育成に取り組む[1]。翌年、県制発布とともに岡山県会議員に当選したが、その翌年辞した[4]。自由民権を唱え、1882年︵明治15年︶には県内の有志を募り津山にて政談いろは新聞を発刊したが、直ちに発禁処分となった[4]。1884年︵明治17年︶には判事補となり岡山始審裁判所詰を命じられた[4]。その後、1889年︵明治22年︶2月の大日本帝国憲法公布に際して衆議院議員を志し、加藤平四郎らが組織する美作国友愛会に所属した[4]。さらに同年5月に東京で行われた大同団結大会に臨み、県下の有志を募り備作大同倶楽部を組織した[4]。ほか、勧解吏員、中国鉄道取締役などを務めた[2]。
1890年︵明治23年︶7月の第1回衆議院議員総選挙では岡山県第1区から自由党所属で出馬し当選[2]。第2回総選挙、第4回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]。
人物
編集脚注
編集参考文献
編集
●三松隠士﹃帝国議会衆議院議員列伝 第1巻﹄公同会、1890年。
●衆議院、参議院 編﹃議会制度七十年史 第11﹄大蔵省印刷局、1962年。
●上田正昭ほか 監修﹃講談社日本人名大辞典﹄講談社、2001年。ISBN 4062108496。