菊池武時

鎌倉時代末期の武将。菊池氏の第12代当主。

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凡例

菊池 武時
菊池武時/菊池容斎画『前賢故実』(明治時代
時代 鎌倉時代末期
生誕 正応5年(1292年
死没 元弘3年/正慶2年3月13日1333年4月27日[1]
改名 正竜丸、次郎、寂阿[1]
戒名 広福院真空寂阿
墓所 首塚:福岡市中央区六本松の菊池霊社
胴塚:同市城南区七隈の菊池神社
官位従一位1902年〈明治35年〉11月12日
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 菊池氏
父母 父:菊池隆盛
頼隆武重武茂武澄隆舜武吉武義武光武尚武士武隆武敏武豊、乙阿迦丸[1]
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生涯

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家督相続

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幼名は正龍丸。父の隆盛が武房より先に死去した後、菊池氏の家督は兄の時隆が武房の養嗣子となって継いだが、叔父の菊池武本がこれに不満を持って対立し、結果として時隆と武本が共に滅んだため、幼少の身で家督を継いで当主となった。菊池十二代の責務から、祖父伝来の弓矢の道に励むと共に文学を嗜むなど、幼少の頃から修養を積んだ。

挙兵

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西

3/21333311西13使使調使使西42200

その後の鎮西探題

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西25223西

413847[2][2][2][2][2]

1940 2007[1][2]


人物

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[3]10

贈位

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「忠功」を「功績」の意味に用いる当時の用例としては、『太平記』巻12「千種殿文観僧正奢侈事」の「六波羅ノ討手ニ上リタリシ忠功ニ依テ」や巻32「鬼丸鬼切事」の「朝敵ノ大将を討タリツル忠功抜群トイヘハ」など[2]

出典

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(一)^ abc 2005, p. 200.

(二)^ abcdefg  ; ;  4︿ 7632007467486ISBN 978-4582807639  pp. 475476 

(三)^ . . 20213182021318

(四)^ 32188387

(五)^ 581019021114

参考文献

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  • 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。ISBN 464205233X 
  • 平泉澄『菊池勤王史』(改版)皇學館大学出版部、1976年(原著1941年)。