蒙疆神社
蒙古聯合自治政府の首都張家口にあった神社
蒙疆神社(もうきょうじんじゃ)は、日中戦争期に蒙古聯合自治政府の首都張家口にあった神社。
蒙疆神社 | |
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所在地 |
蒙古聯合自治政府張家口市林園北街 (現: ![]() |
位置 | 北緯40度48分59.4秒 東経114度54分34.9秒 / 北緯40.816500度 東経114.909694度座標: 北緯40度48分59.4秒 東経114度54分34.9秒 / 北緯40.816500度 東経114.909694度 |
主祭神 |
天照大神 明治天皇 国魂神 北白川宮永久王[1] |
創建 | 1941年(昭和16年)10月6日 |
地図 |
概要
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1940年︵昭和15年︶9月に同地で殉職した北白川宮永久王など4柱の神々を祀っていたが、終戦後に廃絶された[注釈1]。また、チャハル作戦での戦死者を顕彰する蒙疆忠霊塔が隣接していた。現在、両者のあった土地はそれぞれ勝利公園と烈士陵園になっている。
神道家の小笠原省三は祭神の決定を聞いた当時、日本の外務大臣に意見書を提出し、モンゴル人に日本との精神的一体化を強要するために蒙疆神社にチンギス・ハーンを祀ることが、﹁蒙古民族を﹃ラマ教﹄より救出し、日蒙一体の特殊地域を強化する政策的見地よりするも極めて重要なる﹂と主張した[1]。﹁チンギス・ハーン神社﹂の持論は屡々展開されたが、結局それは聞き入れられなかったという[1][注釈2]。
西北研究所にかぎらず、当時日本の機関・団体に所属する者は、国籍を問わず蒙疆神社参拝を義務付けられていた。研究員の藤枝晃によると、善隣協会には回民女塾を卒業した女性事務員が在籍していたが、イスラム教を信仰していた彼女までもが当たり前のように神道の蒙疆神社へ参拝しに行っていたという[4]。
拝殿は切妻の屋根が撤去されたが、2023年の時点で建物として使われている。[5]
脚注
編集注釈
編集出典
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(一)^ abc田中剛﹁成吉思汗廟の創建﹂﹃20世紀中国の社会システム : 京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター研究報告﹄、京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター、2009年、122-123頁、hdl:2433/246446、2023年11月8日閲覧“第1編 メディア・シンボル”
(二)^ 小笠原省三 編﹁小笠原省三年譜︵嵯峨井建︶﹂﹃海外神社史﹄ゆまに書房、2004年、31-33頁。ISBN 4843312649。 NCID BA69059693。
(三)^ 小笠原省三 編﹁蒙疆神社の祭神問題﹂﹃海外神社史﹄ゆまに書房、2004年、235-236頁。ISBN 4843312649。 NCID BA69059693。
(四)^ 澤井充生﹁皇居遥拝した回民たち : 日本の回教工作にみる異民族への眼差し﹂﹃人文学報﹄第513号、首都大学東京人文科学研究科、2017年3月、107-129頁、ISSN 0386-8729、NAID 120006328068、2021年6月1日閲覧。
(五)^ 韩祥瑞 (2023年9月22日). “漫话张家口胜利公园” (中国語). 张家口地方文献工作室. 2023年11月21日閲覧。