藤子・F・不二雄プロ
日本の東京都新宿区にある漫画制作会社
種類 | 株式会社 |
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略称 | 藤子プロ |
法人番号 | 7011101024533 |
事業内容 | 藤子・F・不二雄の漫画の管理 |
関係する人物 | 藤子・F・不二雄 |
外部リンク | https://dora-world.com/ |
概要
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藤本弘と安孫子素雄のコンビ漫画家﹁藤子不二雄﹂[1]は1966年に﹁藤子スタジオ﹂を設立して漫画制作と著作権管理を行っていたが、1988年の独立に伴い、藤子スタジオは安孫子︵藤子不二雄Ⓐ︶が引き継ぎ、藤本︵藤子不二雄Ⓕ︶は新たに﹁有限会社藤子プロ﹂を設立し同様の業務を行うことになった[2]。設立時の代表取締役は藤本弘。
藤本弘は1989年1月頃、ペンネームを﹁藤子不二雄Ⓕ﹂から﹁藤子・F・不二雄﹂に変更[3]。会社名は同年10〜11月頃、﹁藤子プロ﹂から﹁藤子・F・不二雄プロ﹂[4]に変更された[5][6]。ただし、著作権表示等では﹁藤子プロ﹂の略称が引き続き用いられた。
藤本弘没後に株式会社化し、代表取締役会長は夫人である藤本正子が、社長には伊藤善章︵元小学館プロダクション取締役︶が就任した。藤本正子は2006年に退任。2023年時点では社長を藤本の次女の勝又日子が務めている[7]。
藤本弘の生前︵1988年〜1996年︶は、藤子・F・不二雄作品の著作権管理と漫画制作が主たる業務だった。
藤本弘没後は、藤子・F・不二雄のライフワークを引き継ぐ形で所属漫画家による﹃大長編ドラえもん﹄の連載執筆等を行った。
2004年に漫画制作を取りやめ、当時所属していた漫画制作スタッフを全て独立させた。[要出典]その後は著作権管理を主な業務とするようになった。
﹃ドラえもん﹄の長編漫画、学習漫画等の執筆は、外部の漫画家によりその後も活発に行われており、﹁藤子・F・不二雄プロ﹂はその著者としてクレジットされている。
2007年に神奈川県の生田緑地内に﹁川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム﹂︵藤子・F・不二雄作品を展示する記念館︶を設置することを発表し、建物の建設およびミュージアムの運営を委託する関連会社﹁株式会社藤子ミュージアム﹂を2008年に設立、2011年9月に開館している。
上記のほか、﹃ドラえもん﹄を中心としたキャラクターグッズの製作管理も行っている。
藤子スタジオとの関係
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2023年現在、同社と藤子不二雄Ⓐの﹁株式会社藤子スタジオ﹂には資本、業務ともに基本的につながりがなく、完全に別会社として運営されている。そのため、﹁藤子・F・不二雄﹂と﹁藤子不二雄Ⓐ﹂は個別の作家として著作権等が存在することになり、﹁1988年の独立後にどちらかの単独名義にならなかった合作﹂︵共作︶に関する著作権表記は両社名を併記する形をとっている。
共作のため双方が権利を持つ﹃オバケのQ太郎﹄は長らく再版されなかったが、2009年7月に﹃藤子・F・不二雄大全集﹄にて刊行され、2015年7月にてんとう虫コミックスの新装版が刊行された。
『オバケのQ太郎』再版問題については「オバケのQ太郎#長期にわたる絶版」を参照
出身者
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同社は、藤子・F・不二雄作品の制作において作画を補助する多数のアシスタントを雇用した。その中には、のちに独立した者も多い。
なお、藤子プロおよび藤子スタジオでは、﹁アシスタント﹂ではなく﹁スタッフ﹂と呼んでいる。
●萩原伸一︵のちの むぎわらしんたろう︶ - 藤子・F存命時の最後のチーフ。1988年入社。1993年にチーフ就任。2000年に独立。
●岡田康則 - 藤子・F没後の1998年に入社。2003年に独立。
藤子不二雄時代に藤子・F・不二雄を支えたスタッフについては「藤子スタジオ#出身者」を参照
脚注
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(一)^ 藤本と安孫子の共同ペンネーム。
(二)^ 藤子不二雄ランドの藤本作品の奥付では1988年3月11日発行﹃パーマン﹄12巻から﹁Fuziko Fuzio﹂﹁藤子不二雄Ⓕ﹂﹁FUZIKO PRO﹂表記︵それまでは﹁Fuziko Fuzio﹂﹁藤子不二雄﹂﹁FUZIKO STUDIO﹂表記︶。
(三)^ 藤子不二雄ランドの藤本作品の奥付では1989年1月20日発行﹃少年SF短編﹄1巻から﹁Fuziko F Fuzio﹂﹁藤子・F・不二雄﹂﹁FUZIKO PRO﹂表記︵それまでは﹁Fuziko Fuzio﹂﹁藤子不二雄Ⓕ﹂﹁FUZIKO PRO﹂表記︶。同年2月17日発行の﹃少年SF短編﹄2巻から会社名は﹁FUJIKO PRO﹂表記。
(四)^ 当時の商号登記の制約により、この時点での正式な商号は﹁藤子エフ不二雄プロ﹂であった。
(五)^ 藤子不二雄ランドの藤本作品の奥付の会社名は1989年11月10日発行﹃宙犬トッピ﹄で﹁FUJIKO F Fuzio PRO﹂︵この表記は1回限りのため誤植と考えられる︶に、翌週11月17日発行﹃ドラえもん﹄39巻から﹁FUJIKO F FUJIO PRO﹂表記。
(六)^ 藤子不二雄ランドの藤本作品の奥付の著者名の英字表記は同年12月8日発行の﹃ドラえもん﹄40巻から﹁Fujiko F Fujio﹂表記︵それまでは﹁Fuziko F Fuzio﹂表記︶。安孫子作品は2002年〜2005年に発行された藤子不二雄Aランドまで一貫して﹁Fuziko FuzioⒶ﹂﹁FUZIKO STUDIO﹂表記なことから考えると、1966年の藤子スタジオの設立時に﹁Z﹂を用いた表記で登記し、藤本は藤子プロの設立時にそれを踏襲したが、1989年の藤本の改名、藤子プロの改称時に﹁J﹂を用いた表記に改めたと考えられる。
(七)^ “︻長崎︼九州初開催”ドラえもん展”開幕!28組のアーティストとコラボ 夏のハウステンボス今年は初登場尽くし!”. NCC長崎文化放送 (2023年7月7日). 2023年7月8日閲覧。