藤野善蔵
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Fujino_Zenzo.jpg/180px-Fujino_Zenzo.jpg)
略歴
編集
越後長岡藩上級藩士︵100石︶出身で小林虎三郎、河井継之助の弟子である。明治維新前に江戸に出て、箕作塾及び開成所に学び、のち福沢諭吉を慕って1869年︵明治2年︶5月19日に、慶應義塾に入学。1873年︵明治6年︶から1876年︵明治9年︶まで塾長を務めた[2]。東京師範学校に迎えられたころまで在任していたとみられる︶。東京師範学校中学師範科︵後の東京高等師範学校、東京教育大学、現在の筑波大学︶にて教鞭をとり、三菱商業学校の校長になったこともある。
郷里である長岡藩の教育新興に勤め、三島億二郎の提案で﹁ランプの会[3]﹂の集まりに参加し、1878年︵明治11年︶に長岡洋学校を主催する[4]が、健康を損ねて辞職[1]。1885年︵明治18年︶3月2日に死去。