言挙げ
概要
編集
﹃古事記﹄の中巻には、伊吹山の神を討ち取りに出かけたヤマトタケルが白猪に遭い、﹁これは神の使者であろう。今は殺さず帰る時に殺そう﹂と﹁言挙げ﹂する場面がある。この際の用例が現存最古のものとされる。またこのヤマトタケルによる言挙げがその慢心によるものであったため、神の祟りによって殺されてしまった。このため、次のように解釈されている。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを﹁言挙げ﹂と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる︵﹁言霊﹂の項より引用︶
ただし、﹁ことば﹂は広義には﹁身振り﹂など音声以外の要素も含むものであり、﹁身振り﹂︵所作︶を重んじるとする現在の多くの神道諸派も、広義には﹁ことば﹂を重視するものとされている︵﹁言語﹂参照︶。
ただし、神道家自身は﹁神道は言挙げせず﹂︵後述参照︶と言明し、現在では神道の理論闘争を避けることが多い。
主な「言挙げ」の歴史
編集上代(奈良時代)
編集- 『古事記』におけるヤマトタケル。前述。
- 『万葉集』
- 柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とある。
- 蜻蛉島大和の國は神からと言擧げせぬ國しかれども吾は言擧げす 巻十三 作者不詳
古代(平安時代)
編集中世(鎌倉・室町時代)
編集- 吉田兼倶
- 神道初の理論体系書といわれる『唯一神道名法要集』『神道大意』を著す。
- 伊勢神宮の神道五部書
- 中世から近世初期にかけて神道の最重要経典となる(ただし近世中期には吉見幸和によって偽書と断定される)。
近世(江戸時代)
編集
●山崎闇斎
●儒学者として仏教に対抗し、神道と儒教との融合を積極的に推進、垂加神道を提唱、神と人間の関係を儒教的な君臣関係に捉え直した。
●平田篤胤
●禁書だったキリスト教関係の書を読み、創造神の概念を神道に導入した。﹃古事記﹄の解釈にあたり、﹁造化﹂︵創造︶の神として天之御中主神を重視し、同時にスサノオが黄泉の国に行った際に遭った大国主命を幽界︵黄泉の国︶の支配者と解釈した。世界はこの﹁幽界﹂と現実世界とによって構成されていると考え、﹁顕界﹂︵現実世界︶を支配する者としての天皇という概念を創出した。この発想は明治維新の理論的基盤となり、近代初期においては大国主命を祀る出雲派を台頭させた。
近代(明治以降)
編集
●神社事務局祭神論争
●1880–81年、東京日比谷に新築された神道事務局神殿の祭神をめぐる教理闘争。神道事務局は、事務局の神殿の祭神として﹁造化三神﹂︵天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神︶と天照大神の四柱を選らんだが、これに対して﹁出雲派﹂は﹁幽顕一如﹂を掲げて祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきと主張した。すったもんだの挙句、結局事態は明治天皇の勅裁により収拾︵宮中三殿を遙拝する殿社と決定︶、出雲派が事実上敗北した。政府は神道全般に共通の教義の体系の整備の不可能性と、近代国家が復古神道の教義によって民衆を直接に支配することの不可能性とを認識したと言われている。
●大石凝真素美
●琵琶湖の竹生島が人類発祥の地であると主張した。 ﹃大石凝真素美全集﹄1923年、国華社。
●友清歓真
●﹃闢神霧﹄︵1924年︶で、﹃旧約聖書﹄の一節、預言者イザヤの﹁シオンよ醒めよ、醒めて汝の力をきよ﹂を引用し、このシオンは天日の照らす神の国であり、日本であると主張した。
●﹃神道古義﹄︵1936年︶で、﹃旧約聖書﹄のエホバの神がモーセにシナイ山で語りかけるシーンについて、エホバはスサノオの化身であり、シナイ山上でのラッパの音はスサノオの子である五十猛尊︵イタケルノミコト︶の眷属が鳴らした法螺貝であると主張した。また五十猛尊の化身はキリストであり、後に日本に降臨して日本武尊︵ヤマトタケルノミコト︶となったと主張した。
●神道史学会
●1953年1月1日に学会誌﹁神道史研究﹂を創刊した。︵現在も継続中︶
●国家神道の教義の分析
●﹁国家神道﹂の教義については﹁国家神道﹂自身が言明したものが存在しない。しかし菱木政晴は、世界には言語による教義表現を軽視する宗教もあり、比較宗教学や文化人類学の成果を用いることによって困難なく抽出可能であるとして以下の3項目にまとめている。[1]。
1. 聖戦‥ 自国の戦闘行為は常に正しく、それに参加することは崇高な義務である。
2. 英霊‥ そうした戦闘に従事して死ねば神になる。そのために死んだ者をまつる。
3. 顕彰‥ それ︵英霊︶を模範とし、それに見習って後につづけ。
そして﹁顕彰教義に埋め込まれた侵略への動員という政治目的を、聖戦教義・英霊教義の宗教的トリックで粉飾するもの﹂と指摘している。また国家神道の教義の中心を﹁天皇現人神思想﹂や﹁万世一系思想﹂とする意見もある。
脚注
編集- ^ 菱木政晴「国家神道の宗教学的考察―顕彰と謝罪―」「西山学報」42号、1994年3月。