那智山 (山)
日本の和歌山県那智勝浦町北東部にある山々の総称
那智山(なちさん)は和歌山県那智勝浦町北東部の内陸一帯にそびえる山々の総称。
名称の由来は、難地の義とも、熊野本宮大社や熊野速玉大社よりもノチ(後)に山が開かれたからともいわれるが定かではない。世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道の登録物件が所在する。
概要
編集歴史
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平安時代の那智山経塚などがあるように古くから信仰の山であり、聖地として歌われ[1]、南海補陀落の山としても知られ、観音の浄土として修験者などの集まる霊場となっていた。なお、那智滝の神聖視、または那智滝が那智山の奥の妙法山に登るための禊祓の地であったことが聖地化の起源とされる。古い記録では、﹃枕草子﹄の中の那智滝に関する記述や、1078年︵承暦2年︶の那智山への参拝の記録などがある[2]。後に多くの堂社が設けられて一山霊場となり、この間に浄蔵や花山法皇らが滝籠・山籠修行を行なった[3][4]。
神仏習合による那智山を含めた熊野三山が成立するのは1083年︵永保3年︶以前のことで、この頃には一山の中心である熊野夫須美神を主神として祀る熊野夫須美神社︵現・熊野那智大社︶が成立していた[5]。三山成立以降は上皇や貴族、庶民など多くの参詣者が訪れ、参詣の記録が残されている[6][7]。また、那智滝とともに多くの和歌に詠まれている。
鎌倉時代初期には、この熊野夫須美神社を中心として那智山の聖地が組織されていた。この頃の山内の堂塔や神社には、那智十三所権現社︵現・熊野那智大社︶、如意輪堂︵現・青岸渡寺︶、滝本飛滝権現︵現・飛瀧神社︶、千手堂、山上不動堂、如法道場、奥之院︵滝見寺︶などがあり、さらに鎌倉時代から室町時代にかけて那智山御師家尊勝院、同実報院、同廊之坊に繋がる各坊などが存在し、室町時代後期になるとこの他に本願の各坊も登場した[8]。
交通機関
編集脚注
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(一)^ ﹃梁塵秘抄﹄
(二)^ ﹃東寺観智院文書﹄
(三)^ ﹃扶桑略記﹄
(四)^ ﹃元亨釈書﹄
(五)^ 永保3年9月4日︵1083年10月23日︶ ﹃熊野本宮別当三綱大衆等解﹄
(六)^ 藤原宗忠の日記﹃中右記﹄ 天仁2年10月27日︵1109年11月28日︶条
(七)^ 藤原定家 ﹃後鳥羽院熊野御幸記﹄建仁元年10月19日︵1201年11月23日︶条
(八)^ ﹃紀伊続風土記﹄。その詳細な歴史の展開については、小山靖憲﹁熊野三山﹂(﹃熊野ー異界への旅ー﹄、平凡社、2002)、阪本敏行﹃熊野三山と熊野別当﹄(清文堂、2005)、和歌山県立博物館編﹃熊野・那智山の歴史と文化ー那智大滝と信仰のかたちー﹄(2006)などを参照されたい。
参考文献
編集- 『日本歴史地名大系(オンライン版)』(小学館)