青木湯之助
経歴
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1906年︵明治39年︶、江戸時代は紀州徳川直参の旗本だった士族の青木家に生まれる。15歳のときに家出し、貨物船に密航を企てるが発見されて放り出され、大阪を放浪。旅芸人一座に拾われる[1]。タップダンサー稲葉実に師事し、大正末期から昭和初期にかけて俳優、タップダンサーとして活躍する。タップダンスの生徒だった、かつと結婚する。
1937年︵昭和12年︶日本橋にジャズ喫茶エリントンを開業する[2]。終戦後、焼け野原となった東京に汁粉屋﹁紅花﹂を新築開業したことが当たり、以降、本格的にコーヒーショップやレストランなど多角経営に乗り出し、洋食屋チェーン﹁紅花﹂を展開することとなる。店名の﹁紅花﹂の由来は、焼け野原に咲く1輪の赤い花を、妻かつが見つけたことから[3]。
洋食屋﹁紅花﹂の客であった日系二世の商社社長・前岡正美との交流をきっかけに、1955年以降、4回に亘り渡米[4]。
1961年︵昭和39年︶、妻かつ、3人の息子達らと共に力を合わせ、﹁BENIHANA OF TOKYO﹂第1号店をニューヨークのマンハッタン西56丁目に開業する。精進料理屋﹁バンブーハウス﹂を5,000ドルで買い取り、大改装した上での新装オープンだった。内装材には日本から運んだ合掌造りの梁や柱を使った[5]。続いて第2号店を東56丁目に[6]、第3号店をシカゴに開店[7]。その後、西海岸へ次々と店舗を出店していく[8]。
1971年、﹁BENIHANA OF TOKYO﹂とは別業態の﹁GASHO OF JAPAN﹂を四男である青木四郎と開業[9]。
1979年︵昭和54年︶12月27日3時40分、死去。享年73。
芸歴
編集著書
編集脚注・出典
編集- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』青木湯之助著、日本経営出版会刊 書籍コード0034-30400-5822 P.7
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』青木湯之助著、KKベストセラーズ刊 書籍コード0233-011234-7617 P.28
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.45
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.3
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.87
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.170
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.195
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.224
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.174