高橋隆篤
日本の陸軍軍人
経歴
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秋田県出身[1][2][3]。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる[1]。郁文館中学校︵現郁文館中学校・高等学校︶、第一高等学校を経て、1914年︵大正3年︶7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業[1]。1915年︵大正4年︶2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる[1]。1916年︵大正5年︶12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した[1]。
1918年︵大正7年︶9月、伝染病研究所勤務となり、1919年︵大正8年︶4月、獣医中尉に昇進[1]。1920年︵大正9年︶9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年︵大正14年︶8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる[1]。以後、獣医学校教官、陸軍科学研究所員、第1師団獣医部員、獣医学校教官兼科学研究所員を歴任し、1930年︵昭和5年︶8月、二等獣医正に昇進した[1]。科学研究所員専任を経て、1933年︵昭和8年︶8月、関東軍司令部付︵臨時病馬収容所所長[要出典]︶となり満州に赴任し、1935年︵昭和10年︶3月、一等獣医正に進んだ[1]。
1935年8月、獣医学校教官に転じて帰国。1937年︵昭和12年︶2月15日、陸軍武官官等表の改正により獣医大佐となる[1][4]。同年3月、獣医学校幹事に就任し[3]、同年5月、第14師団獣医部長に発令され日中戦争に出征した[1]。1938年︵昭和13年︶9月、第21軍獣医部長に転じ、1939年︵昭和14年︶3月、獣医少将に進級[1][3]。1940年︵昭和15年︶2月、南支那方面軍獣医部長に、同年8月、第3軍獣医部長を経て、1941年︵昭和16年︶3月、関東軍獣医部長に就任[1][2][3]。1942年︵昭和17年︶12月、獣医中将に進み終戦を迎えた[1][2][3]。
その後、シベリア抑留となり、1949年︵昭和24年︶12月、ハバロフスク裁判で重労働25年の刑に処せられる[1]。1951年、脳出血[要出典]のためソ連イワノボ収容所で死去した[1]。享年65。
栄典
編集- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。