エジプト革命 (1919年)
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1919年のエジプト革命︵エジプトかくめい︶は、エジプトを保護国としていたイギリスに対する独立運動である。サアド・ザグルールが組織したワフド党によって革命運動は展開された。この革命により、1922年に、エジプトは独立を達成し、1923年には新憲法が公布された︵エジプト王国︶。
1952年にムハンマド・アリー朝が打倒された運動もエジプト革命と呼ばれる事に注意。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Cairo-Demonstrations1919.jpg/180px-Cairo-Demonstrations1919.jpg)
カイロでのデモ行動
1919年3月8日、ザクルールの逮捕・マルタへの流罪を起因とする形で、エジプトで革命が勃発した。4月までの数週間の間、エジプトの随所でデモンストレーションとストライキが起きた。デモやストライキには、学生、公務員、商人、農民、労働者、イスラームやコプト教といった宗教の枠を超える形での宗教指導者、さらに、女性が参加した。エジプトにおけるデモやストライキは日常生活を停止させ[3]、また、少しずつ、暴力性を帯びていくようになった。イギリスの軍事施設、公共施設にまで攻撃対象が広がっていった。イギリスは、エジプト情勢を鑑み、1922年2月22日、エジプトは独立を達成した。
ワフド党は、1923年に議院内閣制に基づく憲法を起草し、1924年、ザクルールは、エジプトで最初の議院内閣制に基づく首相に就任した。とはいえ、エジプトの独立は、あくまでも形式的なものであり、イギリスの軍隊は、エジプトに駐在し続けた。この暴動が終了するまでに、ニューヨーク・タイムスは、800人以上のエジプト人が命を落とし、1600人以上が負傷したと報じている[4]。
背景
1918年11月11日、ヨーロッパにおいて、第一次世界大戦が終結すると、サアド・ザクルールを代表とする反植民地活動家は、エジプトに駐在していたレジナルド・ウィンゲート高等弁務官に対して、イギリスによるエジプト支配の終了とパリで開催される講和会議には、エジプト人も出席できるように要請した。しばらくして、独立を求める運動が組織されるようになり、市中を埋め尽くすようになった。ただし、この運動は暴力を伴うものではなく、市民的不服従の性格を帯びていた[1] 。ザクルールとワフド党は、エジプト中の町、村を訪れ、エジプトが完全に独立を達成するための請願書の署名を集めていった。イギリスは、ワフド党の支持を見るにつけ、社会的な不安を感じるようになり、1919年3月には、ザクルールとそのほか2人の指導者を逮捕し、マルタへ流した。エジプト史の教授であるJames Jankowskiの言葉を借りれば、﹁この結果は革命であった[2]﹂流れ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Cairo-Demonstrations1919.jpg/180px-Cairo-Demonstrations1919.jpg)
脚注
参考文献
- Jankowski, James (2000). Egypt: A Short History. Oxford: Oneworld Publications
- Vatikiotis, P.J. (1992). The History of Modern Egypt (4th edition ed.). Baltimore: Johns Hopkins University