「オキナワ移住地」を編集中
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||2||1954年7月18日||テゲルベルグ号||24||106||21||127||27||21.3%||船中出産2名 |
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||3||1955年12月19日||チチャレンカ号||26||109||13||122||21||17.2%||先に単身で移民した男性と |
||3||1955年12月19日||チチャレンカ号||26||109||13||122||21||17.2%||先に単身で移民した男性と写真見合いによる呼び寄せ移民の10人の花嫁がいたことから、俗に「花嫁移民団」とも呼ばれた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=72}} |
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||4||1957年10月22日||チサダネ号||39||209||5||214||45||21.0%|| |
||4||1957年10月22日||チサダネ号||39||209||5||214||45||21.0%|| |
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ボリビアのオキナワ移住地に移民し、その後、アルゼンチンに再移住した後に日本に戻ってきた元移民者のある男性は、孫にボリビアの移民について以下のように語った。 |
ボリビアのオキナワ移住地に移民し、その後、アルゼンチンに再移住した後に日本に戻ってきた元移民者のある男性は、孫にボリビアの移民について以下のように語った。 |
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{{Quotation|戦争が終わって壕から出て収容所生活の後、村にもどったら、屋敷は米軍基地になっていた。米軍の払い下げテントに四家族で住んでい |
{{Quotation|戦争が終わって壕から出て収容所生活の後、村にもどったら、屋敷は米軍基地になっていた。米軍の払い下げテントに四家族で住んでいだ。仕切りは段ボール箱、背を伸ばせば隣の家族生活が見えた。ボリビア移住の誘いがあり、'''ボリビアに移民したが、ひどい所だった'''。︵その後︶アルゼンチンへ移り生活した。10年前、日本へ戻ってきた。'''結局、私たちは棄てられた民だったのです'''。|日本に戻ってきたある元入植者|{{Harvtxt|沼尾、多文化共生をめざす地域づくり|1996|pp=80}}}}
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==== パス・エステンソロの回顧 ==== |
==== パス・エステンソロの回顧 ==== |
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入植当初は、孤立した集落であったため[[沖縄方言|ウチナーグチ]]︵沖縄方言︶が一般的に使用されていた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その後、子弟が学校に通い始めると、ウチナーグチ、日本語、スペイン語の3種類を混ぜて使うようになった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その比率は、世代、地域によって違うが、ボリビア人社会に近く、年齢が若いほど、スペイン語の使用率が高まった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。
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入植当初は、孤立した集落であったため[[沖縄方言|ウチナーグチ]]︵沖縄方言︶が一般的に使用されていた{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その後、子弟が学校に通い始めると、ウチナーグチ、日本語、スペイン語の3種類を混ぜて使うようになった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。その比率は、世代、地域によって違うが、ボリビア人社会に近く、年齢が若いほど、スペイン語の使用率が高まった{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。
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オキナワ移住地ではウチナーグチが沖縄県よりも色濃く残っているともいわれていたが、時代の流れと共に使われなくなってきている{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。
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オキナワ移住地ではウチナーグチが沖縄県よりも色濃く残っているともいわれていたが、時代の流れと共に使われなくなってってきている{{sfn|コロニア・オキナワ入植50周年記念誌|2005|p=304}}。
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=== 沖縄の伝統芸能 === |
=== 沖縄の伝統芸能 === |