「クレオメネス戦争」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
20行目: | 20行目: | ||
== 概要 == |
== 概要 == |
||
[[スパルタ王]][[クレオメネス3世]]はスパルタの国政を改革し、スパルタを再び[[ペロポネソス半島]]の覇者たらめんとし、ペロポネソス半島の北半分を支配していた[[アカイア同盟]]に挑んだ。クレオメネス率いるスパルタは快進撃を続け、一時はアカイア同盟の盟主の座を掴むかに見えた。しかし、アカイア同盟の指導者の[[シキュオンのアラトス|アラトス]]は[[マケドニア王]][[アンティゴノス3世]]を呼び寄せ、その力によってクレオメネスに対抗しようとした。アカイア人とマケドニアによる[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]奪回を転換点として戦況はアカイア・マケドニアの優勢に転じ、紀元前222年の[[セ |
[[スパルタ王]][[クレオメネス3世]]はスパルタの国政を改革し、スパルタを再び[[ペロポネソス半島]]の覇者たらめんとし、ペロポネソス半島の北半分を支配していた[[アカイア同盟]]に挑んだ。クレオメネス率いるスパルタは快進撃を続け、一時はアカイア同盟の盟主の座を掴むかに見えた。しかし、アカイア同盟の指導者の[[シキュオンのアラトス|アラトス]]は[[マケドニア王]][[アンティゴノス3世]]を呼び寄せ、その力によってクレオメネスに対抗しようとした。アカイア人とマケドニアによる[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]奪回を転換点として戦況はアカイア・マケドニアの優勢に転じ、紀元前222年の[[セラシアの戦い]]で彼らは決定的な勝利を得て、クレオメネスを[[エジプト]]への[[亡命]]に追い込み、スパルタを占領した。
|
||
== 背景 == |
== 背景 == |
||
[[紀元前235年]]、クレオメネス3世は父[[レオニダス2世]]の後を継ぎスパルタ王に即位した。クレオメネスは失敗に終わった[[アギス4世]]の改革路線を継承し、古のスパルタの制度や生活様式の復活のための改革を目論んだ。というのも、彼の見るところでは市民はだらけ切っており、個人的な快楽や欲望に耽り、公的な事柄に熱意を示さず、また王は名ばかりで実権は[[エフォロス]]の許にあった |
[[紀元前235年]]、クレオメネス3世は父[[レオニダス2世]]の後を継ぎスパルタ王に即位した。クレオメネスは失敗に終わった[[アギス4世]]の改革路線を継承し、古のスパルタの制度や生活様式の復活のための改革を目論んだ。というのも、彼の見るところでは市民はだらけ切っており、個人的な快楽や欲望に耽り、公的な事柄に熱意を示さず、また王は名ばかりで実権は[[エフォロス]]の許にあった<ref>プルタルコス, 3</ref>。クレオメネスは側近の[[クセナレス]]を試したが、彼は味方にならないだろうと考え、クセナレスですらそうだから味方はいそうにはないと判断し、一人で改革を計画した。そして彼は平時よりも戦時の方が改革に向いていると考えアカイア同盟との戦いを決意した。
|
||
== 開戦 == |
== 開戦 == |
||
30行目: | 30行目: | ||
当時、アカイア同盟のアラトスはペロポネソスを一つの統一体にしようとしており、それに組せぬ[[アルカディア]]を略奪するなど狼藉を働いていた。こうしてアラトスはクレオメネスの出方を試し、都市も経験も足りぬ若造と彼を見くびってかかった。 |
当時、アカイア同盟のアラトスはペロポネソスを一つの統一体にしようとしており、それに組せぬ[[アルカディア]]を略奪するなど狼藉を働いていた。こうしてアラトスはクレオメネスの出方を試し、都市も経験も足りぬ若造と彼を見くびってかかった。 |
||
それに対してエフォロスたちはラコニアと[[メガロポリス]]の国境地帯であった[[ベルビナ]]にクレオメネスを派遣した。彼は同地を占領し、砦をめぐらせた |
それに対してエフォロスたちはラコニアと[[メガロポリス]]の国境地帯であった[[ベルビナ]]にクレオメネスを派遣した。彼は同地を占領し、砦をめぐらせた<ref>ibid, 4</ref>。[[ポリュビオス]]によれば、紀元前229年にクレオメネスはアカイアを攻撃し、[[テゲア]]、[[マンティネア]]、[[カヒュアイ]]、アルカディアの[[オルコメノス]]といった諸市を占領し、[[アイトリア同盟]]と同盟を結んだ<ref>ポリュビオス, II. 46</ref>。一方アラトスは夜間にテゲアとオルコメノスを占領しようと向ったが、彼に内通していた人々はクレオメネスのベルビナ占領を聞いて何もしなかったため、アラトスは手ぶらで帰った。これらの事件によって、アカイア同盟はスパルタとの戦争を決議した。
|
||
その後クレオメネスはアルカディア内部に進出したが、アカイア同盟との戦争を恐れたエフォロスは彼に撤退を命じ、彼はそれに従った。しかしその直後にアラトスがオルコメノスの北のカヒュアイを占領したため、再びクレオメネスを出撃させた。クレオメネスはアルカディア中央部の[[メテュドリオン]]を占領し、[[アルゴリス]]地方を荒らしまわった。それに対し、紀元前228年5月にアカイア人は[[ストラテゴス]]として[[アリストマコス]]を任じ、彼を[[歩兵]]20000と[[騎兵]]1000からなる軍と共に差し向けた。それに対してスパルタ軍は5000人を切る数であった。両軍は[[パランティオン]]近郊で遭遇した。戦う意思を持っていたクレオメネスをアリスマコスに同行していたアラトスは恐れ、アリストマコスに注意を呼びかけて自らは戦列から身を引いた。このことによってアラトスは見方からは非難され、敵からは嘲弄された。 |
その後クレオメネスはアルカディア内部に進出したが、アカイア同盟との戦争を恐れたエフォロスは彼に撤退を命じ、彼はそれに従った。しかしその直後にアラトスがオルコメノスの北のカヒュアイを占領したため、再びクレオメネスを出撃させた。クレオメネスはアルカディア中央部の[[メテュドリオン]]を占領し、[[アルゴリス]]地方を荒らしまわった。それに対し、紀元前228年5月にアカイア人は[[ストラテゴス]]として[[アリストマコス]]を任じ、彼を[[歩兵]]20000と[[騎兵]]1000からなる軍と共に差し向けた。それに対してスパルタ軍は5000人を切る数であった。両軍は[[パランティオン]]近郊で遭遇した。戦う意思を持っていたクレオメネスをアリスマコスに同行していたアラトスは恐れ、アリストマコスに注意を呼びかけて自らは戦列から身を引いた。このことによってアラトスは見方からは非難され、敵からは嘲弄された。 |
||
38行目: | 38行目: | ||
[[紀元前227年]]5月、アラトスはストラテゴスに選出されると[[エーリス|エリス]]を攻撃した。クレオメネスはエリスの援助の要請に応じて出撃した。彼は[[リュカイオン山]]近くで作戦を終えて引き上げているアカイア軍に[[奇襲]]を仕掛け、多数を殺傷した。この戦いでアラトスも戦死したという誤報が流れたが、アラトスはそれを逆手に取り、残余の兵と共にマンティネイアへ行き、敵襲を全く予想していなかったマンティネアを易々と占領した。 |
[[紀元前227年]]5月、アラトスはストラテゴスに選出されると[[エーリス|エリス]]を攻撃した。クレオメネスはエリスの援助の要請に応じて出撃した。彼は[[リュカイオン山]]近くで作戦を終えて引き上げているアカイア軍に[[奇襲]]を仕掛け、多数を殺傷した。この戦いでアラトスも戦死したという誤報が流れたが、アラトスはそれを逆手に取り、残余の兵と共にマンティネイアへ行き、敵襲を全く予想していなかったマンティネアを易々と占領した。 |
||
マンティネア陥落で気落ちしたスパルタ人を元気付けるためにクレオメネスは紀元前228年に[[エウダミダス3世]]が死んでいた︵ただし[[パウサニアス]]はクレオメネスによる毒殺を主張︶のでエウリュポン家の[[アルキダモス5世]]︵兄アギス4世の処刑時に[[メッセニア]]へ亡命︶を呼び戻して共同統治者として王位につけた。ところが、[[プルタルコス]]によるとアギスを殺した者たちは報復を恐れてアルキダモスを暗殺した |
マンティネア陥落で気落ちしたスパルタ人を元気付けるためにクレオメネスは紀元前228年に[[エウダミダス3世]]が死んでいた︵ただし[[パウサニアス]]はクレオメネスによる毒殺を主張︶のでエウリュポン家の[[アルキダモス5世]]︵兄アギス4世の処刑時に[[メッセニア]]へ亡命︶を呼び戻して共同統治者として王位につけた。ところが、[[プルタルコス]]によるとアギスを殺した者たちは報復を恐れてアルキダモスを暗殺した<ref>プルタルコス, 5</ref>。それに対し、ポリュビオスはクレオメネスによって殺されたとしている<ref>ポリュビオス, V. 37</ref>。
|
||
== ラドケイアの戦いとクレオメネスの改革 == |
== ラドケイアの戦いとクレオメネスの改革 == |
||
56行目: | 56行目: | ||
しかし、その時アカイア同盟は内部分裂の危機にあった。同盟離脱の意向を持った都市がいくつも現れ、マケドニア人を呼びこんだアラトスに憤りを感じる者もいたのである。この機に乗じてクレオメネスはアカイアに侵攻し、まずアカイア東部の[[ペレネ]]を強襲して占領し、続いてアルカディア北辺の[[フェネオス]]と[[ペンテレイオン]]を味方につけた。一方アカイア人はその時[[コリントス]]と[[シキュオン]]で裏切りの気配があったのでアルゴスからそちらへ軍を送っていた。 |
しかし、その時アカイア同盟は内部分裂の危機にあった。同盟離脱の意向を持った都市がいくつも現れ、マケドニア人を呼びこんだアラトスに憤りを感じる者もいたのである。この機に乗じてクレオメネスはアカイアに侵攻し、まずアカイア東部の[[ペレネ]]を強襲して占領し、続いてアルカディア北辺の[[フェネオス]]と[[ペンテレイオン]]を味方につけた。一方アカイア人はその時[[コリントス]]と[[シキュオン]]で裏切りの気配があったのでアルゴスからそちらへ軍を送っていた。 |
||
その時アルゴスではネメア祭が開催されており、クレオメネスは祭りで大勢の人がいる時にそこを襲えば容易にアルゴスを占領できると考えた。彼は夜中に劇場を見下ろすアスピス地域に軍を向わせてそこを占領し、誰一人立ち向かう者もなく易々とアルゴスを占領した。アルゴスはスパルタの駐屯軍を受け入れ、20人の市民を[[人質]]として差し出し、スパルタの同盟国になった。これまでアルゴスを味方に引き入れたスパルタの王はおらず、名将として名高い[[エピロス王]][[ピュロス]]でさえアルゴスを占領できず、同地での戦いで敗死したことから、アルゴス占領によってクレオメネスの名声と評価は一気に高まった |
その時アルゴスではネメア祭が開催されており、クレオメネスは祭りで大勢の人がいる時にそこを襲えば容易にアルゴスを占領できると考えた。彼は夜中に劇場を見下ろすアスピス地域に軍を向わせてそこを占領し、誰一人立ち向かう者もなく易々とアルゴスを占領した。アルゴスはスパルタの駐屯軍を受け入れ、20人の市民を[[人質]]として差し出し、スパルタの同盟国になった。これまでアルゴスを味方に引き入れたスパルタの王はおらず、名将として名高い[[エピロス王]][[ピュロス]]でさえアルゴスを占領できず、同地での戦いで敗死したことから、アルゴス占領によってクレオメネスの名声と評価は一気に高まった<ref>プルタルコス, 18</ref>。そして、アルゴス陥落のすぐ後には[[クレオナイ]]と[[フレイウス]]がクレオメネスになびいた。
|
||
その頃アラトスはコリントスで親スパルタの人々の審問などを行っていたが、この知らせを聞くやコリントスもがスパルタになびくと思い、市民を評議場に集めて自分はその隙にシキュオンへと逃げ帰った。アラトスの予想は的中し、コリントス人は間もなく市をクレオメネスに明け渡した([[紀元前225年]]8月)。この知らせを聞いたクレオメネスはコリントス人がアラトスを逮捕しなかったことを責め、使者としてメギストヌウスを送り、未だアクロコリントスにはアカイアの守備隊が残っていることからこれを明け渡せば多額の金を渡すことを知らせた。 |
その頃アラトスはコリントスで親スパルタの人々の審問などを行っていたが、この知らせを聞くやコリントスもがスパルタになびくと思い、市民を評議場に集めて自分はその隙にシキュオンへと逃げ帰った。アラトスの予想は的中し、コリントス人は間もなく市をクレオメネスに明け渡した([[紀元前225年]]8月)。この知らせを聞いたクレオメネスはコリントス人がアラトスを逮捕しなかったことを責め、使者としてメギストヌウスを送り、未だアクロコリントスにはアカイアの守備隊が残っていることからこれを明け渡せば多額の金を渡すことを知らせた。 |
||
66行目: | 66行目: | ||
そして、アンティゴノスは[[アイトリア]]人が[[テルモピュライ]]で彼の通過を阻止しようとしたために[[エウボイア]]を経由してペロポネソスへ迫った。[[ゲラネイア峠]]を超えつつある敵に対し、クレオメネスは正面から敵の[[ファランクス]]と戦うよりは地の利を活かして戦おうと考え、[[イストモス]]に陣を張り、アクロコリントスと[[オネイア]]の山々の間に柵と塹壕を設けて防衛線を敷いた。前進を阻まれたアンティゴノスは夜間に[[レカイオン]]を経由して突破しようとしたが撃退され、多数の戦死者を出した。万策尽きたアンティゴノスの許へアラトスからの使者がやってきて、アルゴスがスパルタから離反しようとしている旨を伝え、援軍を求めてきた。アンティゴノスはアラトスに1500の兵士を貸し与え、アラトスは海路でエピダウロスへと向った。反乱の指導者[[アリストテレス (アルゴス人)|アリストテレス]](哲学者の[[アリストテレス]]とは別人)はアラトスの到着を待たずにアクロポリスのスパルタ人守備隊に襲い掛かり、続いてシキュオンより[[ティモクセノス]]率いるアカイア軍が駆けつけた。 |
そして、アンティゴノスは[[アイトリア]]人が[[テルモピュライ]]で彼の通過を阻止しようとしたために[[エウボイア]]を経由してペロポネソスへ迫った。[[ゲラネイア峠]]を超えつつある敵に対し、クレオメネスは正面から敵の[[ファランクス]]と戦うよりは地の利を活かして戦おうと考え、[[イストモス]]に陣を張り、アクロコリントスと[[オネイア]]の山々の間に柵と塹壕を設けて防衛線を敷いた。前進を阻まれたアンティゴノスは夜間に[[レカイオン]]を経由して突破しようとしたが撃退され、多数の戦死者を出した。万策尽きたアンティゴノスの許へアラトスからの使者がやってきて、アルゴスがスパルタから離反しようとしている旨を伝え、援軍を求めてきた。アンティゴノスはアラトスに1500の兵士を貸し与え、アラトスは海路でエピダウロスへと向った。反乱の指導者[[アリストテレス (アルゴス人)|アリストテレス]](哲学者の[[アリストテレス]]とは別人)はアラトスの到着を待たずにアクロポリスのスパルタ人守備隊に襲い掛かり、続いてシキュオンより[[ティモクセノス]]率いるアカイア軍が駆けつけた。 |
||
これを知ったクレオメネスは2000人の兵士を与えてメギストヌウスを直ちにアルゴスへと向わせた。しかし、メギストヌウスは戦死し、クレオメネスはアルゴスを失えば自軍は退路を絶たれ、[[ラコニア]]は敵の手に落ちると考え、コリントスから撤退し、自らアルゴスへと向った。クレオメネスがコリントスを発ったすぐ後にアンティゴノスはコリントスに入城して駐屯軍を置き、続いてアルゴスへと向った。アルゴスを攻撃中のクレオメネスはアンティゴノス軍がやってくるのを見ると撤退に転じ、アルゴスを放棄した。この事件を受けてすぐ、あるいは少し時間を置いてクレオメネスに味方した都市はことごとく彼から離反し、アンティゴノスに与した。「こうして彼は、最短の時日で最大の権力を手中に収め、もうすこしというところ、せめてはもう一年もかければ、申し分なくペロポネソス全体の主権者となれたのであったのに、たちまちにして、ここに再び、すべてを失った」 |
これを知ったクレオメネスは2000人の兵士を与えてメギストヌウスを直ちにアルゴスへと向わせた。しかし、メギストヌウスは戦死し、クレオメネスはアルゴスを失えば自軍は退路を絶たれ、[[ラコニア]]は敵の手に落ちると考え、コリントスから撤退し、自らアルゴスへと向った。クレオメネスがコリントスを発ったすぐ後にアンティゴノスはコリントスに入城して駐屯軍を置き、続いてアルゴスへと向った。アルゴスを攻撃中のクレオメネスはアンティゴノス軍がやってくるのを見ると撤退に転じ、アルゴスを放棄した。この事件を受けてすぐ、あるいは少し時間を置いてクレオメネスに味方した都市はことごとく彼から離反し、アンティゴノスに与した。「こうして彼は、最短の時日で最大の権力を手中に収め、もうすこしというところ、せめてはもう一年もかければ、申し分なくペロポネソス全体の主権者となれたのであったのに、たちまちにして、ここに再び、すべてを失った」<ref>ibid, 21</ref>。 |
||
さらにテゲアにて、最愛の妻[[アギアティス]]の死の知らせが撤退中のクレオメネスに追い討ちをかけた。彼は悲しみに打ちひしがれつつも、表向きは平然とした態度を取り、夜明けと共にテゲアを発ち、スパルタに戻った。 |
さらにテゲアにて、最愛の妻[[アギアティス]]の死の知らせが撤退中のクレオメネスに追い討ちをかけた。彼は悲しみに打ちひしがれつつも、表向きは平然とした態度を取り、夜明けと共にテゲアを発ち、スパルタに戻った。 |
||
クレオメネスの帰国後、エジプトのプトレマイオス3世が母と子を人質として差し出すことを条件にクレオメネスに財政援助を申し出た。プトレマイオスはこれまではアカイア同盟を支援していたが、アンティゴノスを抑えるにはクレオメネスの方が都合が良いと考え、政策を転換したのである。クレオメネスは迷ったが、母[[クラテシクレイア]]は欣然としてそれを受け入れたので、母と子供たちをエジプトに送 |
クレオメネスの帰国後、エジプトのプトレマイオス3世が母と子を人質として差し出すことを条件にクレオメネスに財政援助を申し出た。プトレマイオスはこれまではアカイア同盟を支援していたが、アンティゴノスを抑えるにはクレオメネスの方が都合が良いと考え、政策を転換したのである。クレオメネスは迷ったが、母[[クラテシクレイア]]は欣然としてそれを受け入れたので、母と子供たちをエジプトに送った。 |
||
== セ |
== セラシアの戦いとスパルタ占領 == |
||
一方、アンティゴノスはアカイア人と共にテゲアを包囲戦の末占領し、オルコメノスおよびマンティネアを荒らし回り、[[ヘライア]]と[[テルフサ]]を降伏させ、アカイア同盟の会議に出席するために[[アイギオン]]へと向った。このため、クレオメネスの支配領域はラコニアだけになってしまった。そこで彼は戦力増強と金策のために[[ヘイロータイ]]のうち5アッティカ・ムナを納入した者を自由民として認め、500タラントンの金と2000人の兵士を得た。彼は彼らをマケドニア式に武装させ、アンティゴノスの[[白楯隊]]への対抗部隊とした。その後、彼はメガロポリスを占領しようと考え、兵士には五日分の食料を持たせて[[セッラシア]]へと向かい、あたかもアルゴリス地方へと向わんとしているように見せかけた。そしてメガロポリス領へ転進し、部下の[[パンテウス]]に2タグマの部隊を授けてそこが手薄になっているとの情報が入っている二つの塔の間の城壁の占領を命じ、本隊はゆっくりと進めた。パンテウスは首尾よく任務を果たし、多くの住民を逃がしたもののメガロポリスを占領した︵[[紀元前223年]]秋︶。クレオメネスは最初はアカイア同盟からの脱退を条件にメガロポリス市には手をつけず、そのままにしておいたが、メガロポリス人の[[メガロポリスのフィロポイメン|フィロポイメン]]がアカイア人に味方することを主張してクレオメネスを弾劾し、クレオメネスから降伏する代わりに市には手をつけないという条件を引き出したメガロポリス市民の[[リュサンドリダス]]と[[テアリダス]]を追い出したため、怒ったクレオメネスは市を徹底的に略奪し、破壊し、帰国した。
|
一方、アンティゴノスはアカイア人と共にテゲアを包囲戦の末占領し、オルコメノスおよびマンティネアを荒らし回り、[[ヘライア]]と[[テルフサ]]を降伏させ、アカイア同盟の会議に出席するために[[アイギオン]]へと向った。このため、クレオメネスの支配領域はラコニアだけになってしまった。そこで彼は戦力増強と金策のために[[ヘイロータイ]]のうち5アッティカ・ムナを納入した者を自由民として認め、500タラントンの金と2000人の兵士を得た。彼は彼らをマケドニア式に武装させ、アンティゴノスの[[白楯隊]]への対抗部隊とした。その後、彼はメガロポリスを占領しようと考え、兵士には五日分の食料を持たせて[[セッラシア]]へと向かい、あたかもアルゴリス地方へと向わんとしているように見せかけた。そしてメガロポリス領へ転進し、部下の[[パンテウス]]に2タグマの部隊を授けてそこが手薄になっているとの情報が入っている二つの塔の間の城壁の占領を命じ、本隊はゆっくりと進めた。パンテウスは首尾よく任務を果たし、多くの住民を逃がしたもののメガロポリスを占領した︵[[紀元前223年]]秋︶。クレオメネスは最初はアカイア同盟からの脱退を条件にメガロポリス市には手をつけず、そのままにしておいたが、メガロポリス人の[[メガロポリスのフィロポイメン|フィロポイメン]]がアカイア人に味方することを主張してクレオメネスを弾劾し、クレオメネスから降伏する代わりに市には手をつけないという条件を引き出したメガロポリス市民の[[リュサンドリダス]]と[[テアリダス]]を追い出したため、怒ったクレオメネスは市を徹底的に略奪し、破壊し、帰国した。
|
||
クレオメネスがメガロポリスを占領した頃、アイギオンでアカイア同盟の会議が模様されており、アンティゴノスもそれに参加していた︵紀元前224年9月︶。彼はそこで自分の処置について説明し、これからの戦争をどう戦うかについて話し合い、そして全同盟軍の総司令官に任命された |
クレオメネスがメガロポリスを占領した頃、アイギオンでアカイア同盟の会議が模様されており、アンティゴノスもそれに参加していた︵紀元前224年9月︶。彼はそこで自分の処置について説明し、これからの戦争をどう戦うかについて話し合い、そして全同盟軍の総司令官に任命された<ref>ポリュビオス, II. 54</ref>。ここで彼は[[ピリッポス2世]]が設立した[[ヘレネス同盟]]を﹁諸同盟の同盟﹂の名で復活させ、ギリシアの大部分の都市はそれに加入した。しかし、メガロポリスの占領とそれに続く破壊がアカイア人の耳に入ると、それはアカイア人たちに大きな衝撃を与えた。アンティゴノスはメガロポリス救援に取り掛かろうとしたが、彼の軍は既に越冬のため各ポリスに分散していて迅速には動けないため、ひとまず自身は越冬のために少数の手勢と共にアルゴスへと向った。
|
||
クレオメネスは次の手を打った。すなわち、彼はすぐには動けない敵の状況を見越してアルゴスへと向った。もしアンティゴノスが手向かってくれば一戦交える腹積もりであり、もしそうでないならアルゴスを助けられなかったという事実によってアンティゴノスへの信用を失わせ、彼とアルゴスの仲を裂けると考えた。事はクレオメネスの予想通りに進んだ。国土が荒されるのを見たアルゴス人たちはアンティゴノスの許に押しかけて戦いを要求したが、アンティゴノスは遂にクレオメネスの挑発には乗らなかった。クレオメネスは城壁の前でアンティゴノスを散々愚弄嘲笑した後、帰国した。
|
クレオメネスは次の手を打った。すなわち、彼はすぐには動けない敵の状況を見越してアルゴスへと向った。もしアンティゴノスが手向かってくれば一戦交える腹積もりであり、もしそうでないならアルゴスを助けられなかったという事実によってアンティゴノスへの信用を失わせ、彼とアルゴスの仲を裂けると考えた。事はクレオメネスの予想通りに進んだ。国土が荒されるのを見たアルゴス人たちはアンティゴノスの許に押しかけて戦いを要求したが、アンティゴノスは遂にクレオメネスの挑発には乗らなかった。クレオメネスは城壁の前でアンティゴノスを散々愚弄嘲笑した後、帰国した。
|
||
紀元前222年夏、アンティゴノスはマケドニアより軍勢を集め、アカイア軍と合流し、ラコニア侵攻を企てた。ポリュビオスによればその陣容は以下の通りである |
紀元前222年夏、アンティゴノスはマケドニアより軍勢を集め、アカイア軍と合流し、ラコニア侵攻を企てた。ポリュビオスによればその陣容は以下の通りである<ref>ibid, 2. 65</ref>。マケドニア軍は重装歩兵10000人、[[軽装歩兵]]3000人、騎兵300騎、それに追加して[[アグリアネス人]]と[[ガリア人]]各1000人、歩兵3000人と騎兵300騎から成る傭兵、アカイア軍は歩兵3000人と騎兵300騎、マケドニア式に武装したメガロポリス軍の1000人、ボイオティア軍は歩兵2000人と騎兵200騎、[[エピロス]]軍は歩兵1000人と騎兵50騎、[[イリリア]]人1600人。計歩兵28000人と騎兵1200騎。
|
||
対するクレオメネスはラコニアに入る全ての道の守りを固め、自らは20000人の軍を率いてセッラシアへと向い、両軍はセ |
対するクレオメネスはラコニアに入る全ての道の守りを固め、自らは20000人の軍を率いてセッラシアへと向い、両軍はセラシアにて激突した。この戦いでスパルタ軍は、スパルタ市民6000人中200人を残してことごとく戦死するという決定的な敗北を喫し、クレオメネスはスパルタへと逃げ帰った。
|
||
== スパルタ占領とその後 == |
== スパルタ占領とその後 == |
||
91行目: | 91行目: | ||
これによって堪忍袋の緒が切れたクレオメネスとその仲間たちは囚人を解放してプトレマイオスに対し反乱を起こそうとしたが失敗し、仲間たちと共に自害した。その後、人質だったクラテシクレイアは孫たちと共に処刑された。 |
これによって堪忍袋の緒が切れたクレオメネスとその仲間たちは囚人を解放してプトレマイオスに対し反乱を起こそうとしたが失敗し、仲間たちと共に自害した。その後、人質だったクラテシクレイアは孫たちと共に処刑された。 |
||
== 註 == |
|||
{{reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2010年5月24日 (月) 16:31時点における版
クレオメネス戦争 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| |||||||||
衝突した勢力 | |||||||||
アカイア同盟 アンティゴノス朝マケドニア その他同盟国 | スパルタ | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アラトス アンティゴノス3世 | クレオメネス3世 |