「サッポー」を編集中
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== テクストの伝承と評価 == |
== テクストの伝承と評価 == |
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[[ファイル:Sappho-drawing.jpg|180px|thumb|サッポー<br />(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)]] |
[[ファイル:Sappho-drawing.jpg|180px|thumb|サッポー<br />(ロマン主義的なイメージで描かれたもの)(1883年の作品)]] |
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サッポーの詩はその在世中から人気があったが、古典期のアッティカにはすでに何らかの作品集が存在していたことが知られている{{r|yk88|page=358-359}}。[[ヘレニズム時代]]、紀元前3世紀の[[アレクサンドリア]]において |
サッポーの詩はその在世中から人気があったが、古典期のアッティカにはすでに何らかの作品集が存在していたことが知られている{{r|yk88|page=358-359}}。[[ヘレニズム時代]]、紀元前3世紀の[[アレクサンドリア]]において、[[ビュザンティオン]]のアリストパネースとその弟子のアリスタルコスの2人によってそれぞれサッポー作品集が作られた。いずれも9巻で、アリストパネースのものは題材によって分類され、アリスタルコスのものは詩形によって分類されていた{{r|yk88|page=358-359}}{{r|yk18|page=153}}。アレクサンドリアの詩集は少しずつ散逸したが、2-3世紀ごろにはまだ大部分が残っていたらしい{{r|yk18|page=153}}。 |
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古代ギリシアにおいてサッポーは十番目のムーサとまで呼ばれて評価が高かったが、その一方で[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]]の喜劇の題材にもされた。[[古代ローマ]]時代にもよく知られ、[[オウィディウス]]は抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている(オウィディウスは「サッポーからパオーンへの手紙」によって伝説のイメージを広めた人物でもあった)。[[ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス|カトゥルス]]はサッポーを崇拝し、その51番の詩{{enlink|Catullus 51}}はサッポーの有名な31番の詩{{enlink|Sappho 31}}の翻案と考えられている。 |
古代ギリシアにおいてサッポーは十番目のムーサとまで呼ばれて評価が高かったが、その一方で[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]]の喜劇の題材にもされた。[[古代ローマ]]時代にもよく知られ、[[オウィディウス]]は抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている(オウィディウスは「サッポーからパオーンへの手紙」によって伝説のイメージを広めた人物でもあった)。[[ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス|カトゥルス]]はサッポーを崇拝し、その51番の詩{{enlink|Catullus 51}}はサッポーの有名な31番の詩{{enlink|Sappho 31}}の翻案と考えられている。 |