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チャールズ・ウィンステッド︵Charles Batsell Winstead,1891年5月25日‐1973年8月3日︶は、アメリカ合衆国のFBI捜査官。1934年にギャングのジョン・デリンジャーを射殺した人物として知られる。
略歴
1891年5月25日にテキサス州シャーマンで4人兄弟の長男に生まれた。父親のワシントン・ウィンステッドは18歳、母親のメイ・マールは16歳だった[1]。
シャーマンの男子校とビジネス・スクールに通ったが正式な学位は取得していない。
1915年7月、ジョージア・エリザベス・ガートレルと結婚。若い頃は牧場で働き、第一次世界大戦が始まると米軍に従事した。戦後はテキサス州の保安官代理やエルパソの連邦検事局で法務事務官を務めた。
1926年7月に捜査局(後のFBI)に入局し、ダラス支局でボニーとクライドやマシンガンケリーの捜索に参加した[2]。
デリンジャーギャングとの対峙
1934年4月、捜査局は数々の銀行強盗で注目を浴びるデリンジャーギャングをウィスコンシン州のリトル・ボヘミア・ロッジで追い詰めたものの、全員を取り逃がすという重大なミスをおかした。エドガー・J・フーヴァー長官が集めた捜査官たちは弁護士や会計士出身のエリート層が多く、優秀ではあるが現場を知らない者ばかりだった。そこでフーヴァーは中西部出身のベテラン捜査官に応援を要請した。
同年5月、テキサス州のダラス支局はチャールズ・ウィンステッド、ジェリー・キャンベル、クラレンス・ハートの3人を派遣した。ウィンステッドは身長170cm体重59キロと捜査官の中では小柄なほうで経験も浅かったが、南西部地区を担当していた特別捜査官ガス・ジョーンズは彼の仕事ぶりを称賛していた。
3人はメルヴィン・パーヴィスが率いるデリンジャー特捜班の支援に就いた。しかしシカゴのサミュエル・カウリー捜査官は、﹁シカゴは生活費が嵩むのでダラスに戻りたい﹂という泣き言に近い愚痴を頻繁に聞かされたという。
同年7月、捜査局はジョン・デリンジャーがシカゴの劇場に現れるという情報を入手し、劇場前の通りで待ち伏せして射殺した。後に行なわれた検証で、デリンジャーに命中した弾丸は3発あり、2発がウィンステッドの銃から発射されうち1発が後頭部から頬に向けて貫通しこれが致命傷となったことが明らかになった。この功績によりフーバーから表彰された。
このとき使ったコルト.45オートマチックはシカゴで支給されたもので、事件のすぐあと定期的な銃器の入れ替えの際に局に戻したと本人が話している[3]。
その後、アルヴィン・カーピスやベビーフェイス・ネルソンの捜索にも動員されたが、逃走中のベビーフェイスネルソンの車とイリノイ州の田舎道ですれ違っている。ベビーフェイス・ネルソンとサミュエル・カウリー捜査官らの銃撃戦があったのはその少し後だった。
デリンジャーの死後
デリンジャーギャングが壊滅したあとは中西部に戻りエルパソとアルバカーキで勤務した。エルパソ支局では後にFBI次官および麻薬情報局NDICの局長となるウィリアム・C・サリバン捜査官を指導した。
フーヴァーの人間性を知るウィンステッドは、サリバンに﹃フーヴァーの前では見栄えのいいスーツを着て手帳を持ち歩き、フーバーが口を開くたびにメモを取れ。そしてひたすらお世辞を言うんだ。メモはあとで捨ててしまえ。やつを知る者は皆そうしてる﹄と助言した。
一方サリバンはウィンステッドをこう評価している。﹃彼はいつも本を読んでいた。ほとんどの学生は大学を卒業すると学ぶことをやめてしまうが、彼は最低限の勉学しか受けていないのに常に学び続けていた﹄
1942年に新聞記者のインタビューを受けたとき、ソビエト連邦やその同盟国に対して共産主義者という差別的な発言をした。こういった発言はFBI全体の考え方だという誤解を招きかねない。フーヴァーは彼に謝罪を要求し[4]、さらにオクラホマシティに懲戒移動しようとした[5]。
ウィンステッドの懲戒移動はこれが3回目だった。容疑者をナックルダスターで殴った、一般人を逃亡犯と間違えて逮捕しさらに反ユダヤ的な暴言を吐いた、路上で一般市民と口論になり拳銃を突き付けた、など過去にも幾度もトラブルを起こしていた。︵これがテキサス流だ、と擁護する上司もいた。︶
しかしこの3回目の指令でウィンステッドはフーヴァーに向かって﹃地獄に落ちろ!﹄と叱責し、12月10日に辞任した。
FBI引退後
FBIを退職したのは第二次世界大戦の只中で、彼は陸軍に勤務した。陸軍情報部に所属し、一時期はマンハッタン計画を進めるロスアラモス国立研究所のセキュリティ責任者を務めた[6]。戦争が終わると退役し、ニューメキシコ州で保安官代理や私立探偵などを務めたあと引退した。引退後は牧場を手に入れ余生を過ごした。
1973年8月3日、癌のためニューメキシコ州のアルバカーキ退役軍人病院で亡くなった。82歳だった。遺灰はアルバカーキのフェアビュー記念公園に撒かれた[7]。
後輩のサリバンとはFBI引退後も交流が続いており、遺書には愛用の.357マグナムリボルバーとステットソン帽をはじめ、ブーツ、サドル、ロープなどの乗馬具をサリバンに残すと記してあった。︵サリバンは4年後に狩猟中の事故で亡くなっている︶
ウィンステッドは1950年代頃からFBI時代の回顧録を執筆していたが完成に至らなかった。その手記は2番目の妻のモード・アリーン(1894-1977)から娘のパトリシアの手に渡り、2008年にテキサス州のシャーマン博物館に寄贈された。
登場する作品
﹁パブリック・エネミーズ﹂”Public Enemies” (2009年の映画︶
スティーヴン・ラングがウィンステッドを演じる。映画ではリトル・ボヘミア・ロッジの銃撃戦に参加したことになっている。