チャールズ・ウィンステッド
表示
チャールズ・バッセル・ウィンステッド Charles Batsell Winstead | |
---|---|
生誕 |
1891年5月25日![]() |
死没 |
1973年8月3日 (82歳没) ニューメキシコ州アルバカーキ |
所属組織 |
アメリカ陸軍 連邦捜査局(1926-1942) |
配偶者 |
ジョージア・エリザべス・ガートレル モード・アリーン・サヴェージ(1970-1973) |
子女 | パトリシア |
チャールズ・ウィンステッド(Charles Batsell Winstead,1891年5月25日‐1973年8月3日)は、アメリカ合衆国のFBI捜査官。1934年にギャングのジョン・デリンジャーを射殺した人物として知られる。
略歴
1891年5月25日にテキサス州シャーマンで4人兄弟の長男に生まれた。父親のワシントン・ウィンステッドは18歳、母親のメイ・マールは16歳だった[1]。
シャーマンの男子校とビジネス・スクールに通ったが正式な学位は取得していない。
1915年7月、ジョージア・エリザベス・ガートレルと結婚。若い頃は牧場で働き、第一次世界大戦が始まると米軍に従事した。戦後はテキサス州の保安官代理やエルパソの連邦検事局で法務事務官を務めた。
1926年7月に捜査局(後のFBI)に入局し、ダラス支局でボニーとクライドやマシンガンケリーの捜索に参加した[2]。
デリンジャーギャングとの対峙
1934年4月、捜査局は数々の銀行強盗で注目を浴びるデリンジャーギャングをウィスコンシン州のリトル・ボヘミア・ロッジで追い詰めたものの、全員を取り逃がすという重大なミスをおかした。エドガー・J・フーヴァー長官が集めた捜査官たちは弁護士や会計士出身のエリート層が多く、優秀ではあるが現場を知らない者ばかりだった。そこでフーヴァーは中西部出身のベテラン捜査官に応援を要請した。
同年5月、テキサス州のダラス支局はチャールズ・ウィンステッド、ジェリー・キャンベル、クラレンス・ハートの3人を派遣した。ウィンステッドは身長170cm体重59キロと捜査官の中では小柄なほうで経験も浅かったが、南西部地区を担当していた特別捜査官ガス・ジョーンズは彼の仕事ぶりを称賛していた。3人はメルヴィン・パーヴィスが率いるデリンジャー特捜班の支援に就いた。
同年7月、捜査局はジョン・デリンジャーがシカゴの劇場に現れるという情報を入手し、劇場前の通りで待ち伏せして射殺した。この功績によりフーバーから表彰された。
後に行なわれた検証で、デリンジャーに命中した弾丸は3発あり、2発がウィンステッドのコルト.45から発射されたもので、うち1発が後頭部から頬に向けて貫通しこれが致命傷となったことが明らかになった。
その後、アルヴィン・カーピスやデリンジャーギャングの残党であるベビーフェイス・ネルソンの捜索に動員された。捜査局がベビーフェイス・ネルソンの車を追跡した際にはイリノイ州の田舎道ですれ違っており、その少し後に捜査官との銃撃戦が起きた。この銃撃戦で捜査官2名が死亡、ベビーフェイス・ネルソンも翌日死亡した。
デリンジャーの死後
デリンジャーギャングが壊滅したあとエルパソとアルバカーキに勤務した。エルパソ支局では後にFBI次官および麻薬情報局NDICの局長となるウィリアム・C・サリヴァン捜査官を指導した。
1942年、ある女性新聞記者からインタビューを受けたとき、彼女をソビエト連邦に感化された共産主義者だと侮辱した[3]。1人の軽率な発言がFBI全体の考えだと誤解されかねない。フーヴァーは直ちに謝罪するよう命じ、さらにオクラホマシティに懲戒移動しようとした[4]。
しかしウィンステッドはフーヴァーに向かって﹃地獄に落ちろ!﹄と楯突き、12月10日に辞任した。
FBI退職後
FBIを退職したときは第二次世界大戦の只中で、陸軍情報部に勤務した。一時期はマンハッタン計画を進めるロスアラモス国立研究所のセキュリティ責任者を務めた[5]。戦争が終わりニューメキシコ州で保安官代理や私立探偵などを務めたあと、引退した。引退後は牧場を手に入れ余生を過ごした。
1973年8月3日、癌のためニューメキシコ州のアルバカーキ退役軍人病院で亡くなった。82歳だった。遺灰はアルバカーキのフェアビュー記念公園に撒かれた[6]。
その他のエピソード
●シカゴ支局のサミュエル・カウリー捜査官は、ウィンステッドから﹁シカゴは生活費が嵩むのでダラスに戻りたい﹂という泣き言に近い愚痴を頻繁に聞かされたという。
●デリンジャーを撃ったコルト.45オートマチックはシカゴで支給されたもので、事件のあと定期的な銃器の入れ替えの際に局に戻したと本人が話している[7]。
●後輩ウィリアム・C・サリヴァンのウィンステッドに対する評価。
﹃彼は生まれつきの探求心を持った男だ。いつも本を読んでいた。ほとんどの学生は大学を卒業すると学ぶことをやめてしまうが、彼は最低限の勉学しか受けていないのに常に学び続けていた﹄
●ウィンステッドからサリヴァンへの助言。
﹃フーヴァーに呼び出されたら見栄えのいいスーツを着て、手にはノートを持ち、フーバーが口を開くたびにメモを取れ。そしてひたすらお世辞を言うんだ。メモはあとで捨ててしまえ。やつをよく知る本部の者は皆そうしている﹄
●サリヴァンとはFBI引退後も交流が続き、遺書には愛用の.357マグナムリボルバーとステットソン帽をはじめ、ブーツ、サドル、ロープなどの乗馬具をサリバンに残すと記してあった。︵サリバンは4年後に狩猟中の事故で亡くなった︶
●捜査局では何度かトラブルを起こしており、懲戒移動処分を2回受けている︵3回目のとき辞職した︶。
容疑者をナックルダスターで殴った、一般人を逃亡犯と間違えて逮捕しさらに反ユダヤ的な暴言を吐いた、路上で一般市民と口論になり拳銃を突き付けた、など被害者や目撃者からの苦情が幾度かあった。﹁これがテキサス流だ﹂と擁護する上司もいた。
●1950年代頃からFBI時代の回顧録を執筆していたが完成に至らなかった。
その未完成の回顧録は2番目の妻のモード・アリーン(1894-1977)から連れ子のパトリシアの手に渡り、2008年にテキサス州のシャーマン博物館に寄贈された。
登場する作品
「パブリック・エネミーズ」”Public Enemies” (2009年の映画)
スティーヴン・ラングがウィンステッドを演じる。映画ではリトル・ボヘミア・ロッジの前にシカゴに来たことになっている。
脚注
出典
(一)^ “FamilySearch.org”. ancestors.familysearch.org. 2023年10月13日閲覧。
(二)^ Texoso (2020年3月5日). “Charles Winstead, Former FBI Agent” (英語). New Mexico History. 2023年10月13日閲覧。
(三)^ peoplepill.com. “Charles B. Winstead: American FBI agent (1891 - 1973) | Biography, Facts, Information, Career, Wiki, Life” (英語). peoplepill.com. 2023年10月15日閲覧。
(四)^ Power, Texas Co-op. “A Bulletproof Life” (英語). Texas Co-op Power. 2023年10月13日閲覧。
(五)^ Power, Texas Co-op. “A Bulletproof Life” (英語). Texas Co-op Power. 2023年10月13日閲覧。
(六)^ “名前。生年。死亡年。﹁Find a Grave﹂ メモリアル”. ja.findagrave.com. 2023年10月13日閲覧。
(七)^ “The Legendary SA Charles Winstead” (英語). Faded Glory: Dusty Roads Of An FBI Era. 2023年10月12日閲覧。