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[[1793年]]、母校の[[ケンブリッジ大学]]ジーザス・カレッジにて特別研究員となり<ref>Venn, J.; Venn, J. A., eds. (1922–1958). "Malthus, Thomas Robert". Alumni Cantabrigienses (10 vols) (online ed.). Cambridge University Press.</ref>、[[1805年]]には東インド・カレッジ(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の教授となった<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name="yasashii24" />。
[[1793年]]、母校の[[ケンブリッジ大学]]ジーザス・カレッジにて特別研究員となり<ref>Venn, J.; Venn, J. A., eds. (1922–1958). "Malthus, Thomas Robert". Alumni Cantabrigienses (10 vols) (online ed.). Cambridge University Press.</ref>、[[1805年]]には東インド・カレッジ(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の教授となった<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name="yasashii24" />。
[[1798年]]に主著『[[人口論]]』を著し、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方(「'''マルサスの罠'''」)を提唱した。つまり、人類の幸福を追求する方法を提案したのである{{how|date=2013年3月}}。
[[1798年]]に匿名で 主著『[[人口論]]』を著し<ref>[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1403/12.html 経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か?]書斎の窓</ref> 、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方(「'''マルサスの罠'''」)を提唱した。つまり、人類の幸福を追求する方法を提案したのである{{how|date=2013年3月}}。
マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、より科学的な『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を誹謗するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを「'''[[マルサス主義]]'''」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、1803年には新しく設立された[[東インド会社]]付属学校の政治経済学教授の職に付き、官僚の育成に当たっている<ref name="marusasu">フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ</ref>。
マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、より科学的な『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を誹謗するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを「'''[[マルサス主義]]'''」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、1803年には新しく設立された[[東インド会社]]付属学校の政治経済学教授の職に付き、官僚の育成に当たっている<ref name="marusasu">フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ</ref>。
2014年5月27日 (火) 10:56時点における版
ト マ ス ・ ロ バ ー ト ・ マ ル サ ス ︵ T h o m a s R o b e r t M a l t h u s 、 1 7 6 6 年 2 月 14 日 [ 1 ] - 1 8 3 4 年 12 月 23 日 ︶ は 、 イ ン グ ラ ン ド の サ リ ー 州 ウ ッ ト ン 出 身 の 経 済 学 者 。 古 典 派 経 済 学 を 代 表 す る 経 済 学 者 で 、 過 少 消 費 説 、 有 効 需 要 論 を 唱 え た 人 物 と し て 知 ら れ る 。
来 歴
父 は 弁 護 士 で 植 物 学 者 の ダ ニ エ ル ・ マ ル サ ス で 、 啓 蒙 主 義 者 で あ る 。 彼 は ジ ャ ン = ジ ャ ッ ク ・ ル ソ ー や デ イ ヴ ィ ッ ド ・ ヒ ュ ー ム と 親 交 が あ り 、 マ ル サ ス の 生 年 1 7 6 6 年 に 自 宅 に ル ソ ー と ヒ ュ ー ム を 招 待 し て い る [ 2 ] 。 M a l t h u s の 名 前 の 由 来 は M a l t h o u s e ︵ 麦 芽 製 造 所 ︶ 、 つ ま り ウ ィ ス キ ー 工 場 と さ れ て い る ︵ ジ ョ ン ・ メ イ ナ ー ド ・ ケ イ ン ズ ﹃ J . M . ケ イ ン ズ 人 物 評 伝 ﹄ 75 頁 よ り ︶ [ 3 ] 。 そ の 第 2 子 と し て 生 ま れ 、 家 庭 教 師 か ら 指 導 を 受 け 、 ま た 父 か ら も き め 細 か な 教 育 を 受 け た 。
18 歳 で ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 ジ ー ザ ス ・ カ レ ッ ジ に 入 学 し 、 数 学 と 文 学 を 学 び 、 1 7 8 8 年 に 卒 業 し た 後 、 キ リ ス ト 教 執 事 を 目 指 し て 勉 学 に 励 ん だ 。 そ の 間 の 1 7 9 6 年 に ﹃ 危 機 ﹄ を 著 し た 。 出 版 は し な か っ た が 、 こ れ が 最 初 の 著 書 と な っ た [ 4 ] 。
1 7 9 3 年 、 母 校 の ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 ジ ー ザ ス ・ カ レ ッ ジ に て 特 別 研 究 員 と な り [ 5 ] 、 1 8 0 5 年 に は 東 イ ン ド ・ カ レ ッ ジ ︵ 通 称 ヘ イ リ ー ベ リ ー ・ カ レ ッ ジ ︶ の 教 授 と な っ た [ 6 ] 。 経 済 学 の 教 授 の 任 命 は 、 イ ギ リ ス で は 初 め て の も の だ っ た [ 2 ] 。
1 7 9 8 年 に 匿 名 で 主 著 ﹃ 人 口 論 ﹄ を 著 し [ 7 ] 、 こ の 中 で ﹁ 幾 何 級 数 的 に 増 加 す る 人 口 と 算 術 級 数 的 に 増 加 す る 食 糧 の 差 に よ り 人 口 過 剰 、 す な わ ち 貧 困 が 発 生 す る 。 こ れ は 必 然 で あ り 、 社 会 制 度 の 改 良 で は 回 避 さ れ 得 な い ﹂ と す る 見 方 ( ﹁ マ ル サ ス の 罠 ﹂ ) を 提 唱 し た 。 つ ま り 、 人 類 の 幸 福 を 追 求 す る 方 法 を 提 案 し た の で あ る [ ど う や っ て ? ] 。
マ ル サ ス は ド イ ツ 、 ス ウ ェ ー デ ン 、 フ ィ ン ラ ン ド 、 ロ シ ア に 滞 在 し 、 そ の 国 の 人 口 を 観 測 し 、 自 説 の 補 強 に 力 を 注 い だ 。 そ し て 、 よ り 科 学 的 な ﹃ 人 口 論 ﹄ 第 2 版 を 1 8 0 3 年 に 出 し た 。 こ の 版 に は 政 治 経 済 に 関 す る 重 要 論 文 が 追 加 さ れ て い る 。 こ の よ う な マ ル サ ス の 考 え 方 を 誹 謗 す る も の も 多 数 い た が 、 一 方 名 声 も 大 き な も の に な り 、 産 児 制 限 で 最 貧 困 層 を 救 お う と す る 考 え を ﹁ マ ル サ ス 主 義 ﹂ と も い わ れ る よ う に な っ た 。 経 済 学 者 と し て 認 知 さ れ る よ う に な り 、 1 8 0 3 年 に は 新 し く 設 立 さ れ た 東 イ ン ド 会 社 付 属 学 校 の 政 治 経 済 学 教 授 の 職 に 付 き 、 官 僚 の 育 成 に 当 た っ て い る [ 8 ] 。
1 8 1 0 年 に ﹃ 不 換 紙 幣 に 関 す る 論 考 ﹄ を 、 1 8 1 4 年 に は ﹃ 小 麦 法 の 効 果 に つ い て の 考 察 ﹄ 、 1 8 1 5 年 に ﹃ 地 代 の 性 質 と 増 加 に つ い て の 調 査 ﹄ な ど を 著 し て い る 。 1 8 2 0 年 に は デ ヴ ィ ッ ド ・ リ カ ー ド の 経 済 説 に 反 論 し た ﹃ 経 済 学 原 理 ﹄ ︵ 小 林 時 三 郎 訳 注 、 岩 波 文 庫 上 下 ︶ を 著 し た 。 日 本 語 訳 書 で は ﹃ マ ル サ ス 北 欧 旅 行 日 記 ﹄ ︵ 小 林 時 三 郎 、 西 沢 保 訳 、 未 來 社 、 2 0 0 2 年 ︶ お よ び ﹃ マ ル サ ス 学 会 年 報 ﹄ ︿ マ ル サ ス 学 会 編 、 1 9 9 1 年 - 2 0 0 6 年 度 版 、 2 0 0 8 年 10 月 刊 行 、 雄 松 堂 出 版 ﹀ 15 冊 が あ る 。
マ ル サ ス は 、 東 イ ン ド 会 社 付 属 学 校 の 教 授 と し て 終 生 務 め 、 保 養 地 の バ ー ス で 没 し た の は 1 8 3 4 年 12 月 29 日 で あ る 。 そ の 間 、 ﹃ 人 口 論 ﹄ を 改 定 す る な ど 執 筆 活 動 を 旺 盛 に 行 っ た 。
思 想 ・ 影 響
マ ル サ ス の 思 想 は 、 経 済 学 の う え で は 、 人 間 理 性 の 啓 蒙 に よ る 理 想 社 会 の 実 現 を 主 張 す る ウ ィ リ ア ム ・ ゴ ド ウ ィ ン や ニ コ ラ ・ ド ・ コ ン ド ル セ へ の 批 判 と も 位 置 づ け ら れ る 。
﹃ 人 口 論 ﹄ は 次 の よ う な 命 題 に つ な が る 。 人 口 の 抑 制 を し な か っ た 場 合 、 食 糧 不 足 で 餓 死 に 至 る こ と も あ る が 、 そ れ は 人 間 自 身 の 責 任 で あ り こ れ ら の 人 に 生 存 権 が 与 え ら れ な く な る の は 当 然 の こ と で あ る [ 9 ] 。 戦 争 、 貧 困 、 飢 饉 は 人 口 抑 制 の た め に よ い [ 1 0 ] 。 こ れ ら の 人 を 社 会 は 救 済 で き な い し 、 救 済 す べ き で な い と マ ル サ ス は 考 え た [ 1 1 ] 。 こ れ ら マ ル サ ス に よ る 生 存 権 の 否 定 は 、 ジ ャ ー ナ リ ス ト の ウ ィ リ ア ム ・ コ ベ ッ ト な ど か ら 人 道 に 反 す る と 批 判 を 受 け た [ 1 1 ] 。
人 口 を 統 計 学 的 に 考 察 し た 結 果 、 ﹁ 予 防 的 抑 制 ﹂ と ﹁ 抑 圧 的 抑 制 ﹂ の 二 つ の 制 御 装 置 の 考 え 方 に 到 っ た が 、 こ の 思 想 は 後 の チ ャ ー ル ズ ・ ダ ー ウ ィ ン の 進 化 論 を 強 力 に 支 え る 思 想 と な っ た [ 1 2 ] 。 特 に 自 然 淘 汰 に 関 す る 考 察 に 少 な か ら ず 影 響 を 与 え て い る [ 8 ] 。 す な わ ち 、 人 類 は 叡 智 が あ り 、 血 み ど ろ の 生 存 競 争 を 回 避 し よ う と す る が 、 動 植 物 の 世 界 に は こ れ が な い 。 よ っ て マ ル サ ス の 人 口 論 の と お り の 自 然 淘 汰 が 動 植 物 の 世 界 に は 起 き る 。 そ の た め 、 生 存 競 争 に お い て 有 利 な 個 体 差 を も っ た も の が 生 き 残 り 、 子 孫 は 有 利 な 変 異 を 受 け 継 い だ と ダ ー ウ ィ ン は 結 論 し た の で あ る 。
ジ ョ ン ・ メ イ ナ ー ド ・ ケ イ ン ズ は マ ル サ ス に つ い て ﹁ も し リ カ ー ド で は な く マ ル サ ス が 19 世 紀 の 経 済 学 の 根 幹 を な し て い た な ら 、 今 日 の 世 界 は は る か に 賢 明 で 、 富 裕 な 場 所 に な っ て い た に 違 い な い 。 ロ バ ー ト ・ マ ル サ ス は 、 ケ ン ブ リ ッ ジ 学 派 の 始 祖 で あ る ﹂ と 評 価 し て い る [ 1 3 ] 。
脚注
(一) ^ 2 月 13 日 ・ 17 日 説 も あ り
(二) ^ a b 中 矢 俊 博 ﹃ や さ し い 経 済 学 史 ﹄ 日 本 経 済 評 論 社 、 2 0 1 2 年 、 24 頁 。
(三) ^ 小 泉 祐 一 郎 ﹃ 図 解 経 済 学 者 バ ト ル ロ ワ イ ヤ ル ﹄ ナ ツ メ 社 、 2 0 1 1 年 、 2 2 1 頁 。
(四) ^ フ ラ ン ソ ワ ・ ト レ モ リ エ ー ル 、 カ ト リ ー ヌ ・ リ シ 編 著 、 樺 山 紘 一 日 本 語 版 監 修 ﹃ ラ ル ー ス 図 説 世 界 史 人 物 百 科 ﹄ Ⅲ フ ラ ン ス 革 命 ー 世 界 大 戦 前 夜 原 書 房 2 0 0 5 年 27 ペ ー ジ
(五) ^ V e n n , J . ; V e n n , J . A . , e d s . ( 1 9 2 2 – 1 9 5 8 ) . " M a l t h u s , T h o m a s R o b e r t " . A l u m n i C a n t a b r i g i e n s e s ( 1 0 v o l s ) ( o n l i n e e d . ) . C a m b r i d g e U n i v e r s i t y P r e s s .
(六) ^ M a l t h u s T . R . 1 7 9 8 . A n E s s a y o n t h e P r i n c i p l e o f P o p u l a t i o n . O x f o r d W o r l d ' s C l a s s i c s r e p r i n t : x x i x C h r o n o l o g y .
(七) ^ 経 済 学 史 の 窓 か ら 第 7 回 マ ル サ ス は 陰 鬱 な 科 学 者 か ? 書 斎 の 窓
(八) ^ a b フ ラ ン ソ ワ ・ ト レ モ リ エ ー ル 、 カ ト リ ー ヌ ・ リ シ 編 著 、 樺 山 紘 一 日 本 語 版 監 修 ﹃ ラ ル ー ス 図 説 世 界 史 人 物 百 科 ﹄ Ⅲ フ ラ ン ス 革 命 ― 世 界 大 戦 前 夜 原 書 房 2 0 0 5 年 28 ペ ー ジ
(九) ^ 橘 木 俊 詔 ﹃ 朝 日 お と な の 学 び な お し 経 済 学 課 題 解 明 の 経 済 学 史 ﹄ 朝 日 新 聞 出 版 、 2 0 1 2 年 、 92 頁 。
(十) ^ 佐 藤 雅 彦 ・ 竹 中 平 蔵 ﹃ 経 済 っ て そ う い う こ と だ っ た の か 会 議 ﹄ 日 本 経 済 新 聞 社 ︿ 日 経 ビ ジ ネ ス 人 文 庫 ﹀ 、 2 0 0 2 年 、 3 8 8 頁 。
(11) ^ a b 橘 木 俊 詔 ﹃ 朝 日 お と な の 学 び な お し 経 済 学 課 題 解 明 の 経 済 学 史 ﹄ 朝 日 新 聞 出 版 、 2 0 1 2 年 、 93 頁 。
(12) ^ 中 矢 俊 博 ﹃ や さ し い 経 済 学 史 ﹄ 日 本 経 済 評 論 社 、 2 0 1 2 年 、 26 頁 。
(13) ^ 中 矢 俊 博 ﹃ や さ し い 経 済 学 史 ﹄ 日 本 経 済 評 論 社 、 2 0 1 2 年 、 25 頁 。
関連項目