「トマス・ロバート・マルサス」の版間の差分
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== 来歴 == |
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[[File:Malthus - Essay on the principle of population, 1826 - 5884843.tif |thumb|''Essay on the principle of population'' |
[[File:Malthus - Essay on the principle of population, 1826 - 5884843.tif |thumb|『人口論(''Essay on the principle of population'' )』、1826年版]] |
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父は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、[[啓蒙主義]]者である。彼は[[ジャン=ジャック・ルソー]]や[[デイヴィッド・ヒューム]]と親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーとヒュームを招待している<ref name="yasashii24">中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、24頁。</ref>。''Malthus''の名前の由来は''Malthouse'' |
父は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、[[啓蒙主義]]者である。彼は[[ジャン=ジャック・ルソー]]や[[デイヴィッド・ヒューム]]と親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーとヒュームを招待している<ref name="yasashii24">中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、24頁。</ref>。''Malthus'' の名前の由来は''[[:en:Malthouse|Malthouse]]'' ([[麦芽製造所]])、つまりウィスキー工場とされている([[ジョン・メイナード・ケインズ]] 『J.M.ケインズ 人物評伝』 75頁より)<ref>小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、221頁。</ref>。その第2子として生まれ、家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けた。 |
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18歳で[[ケンブリッジ大学]]ジーザス・カレッジに入学し、数学と文学を学び、1788年に卒業した後、キリスト教[[執事_(キリスト教)|執事]]を目指して勉学に励んだ。その間の1796年に『危機』を著した。出版はしなかったが、これが最初の著書となった<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 27ページ</ref>。 |
18歳で[[ケンブリッジ大学]][[:en:Jesus College, Cambridge|ジーザス・カレッジ]]に入学し、数学と文学を学び、1788年に卒業した後、キリスト教[[執事_(キリスト教)|執事]]を目指して勉学に励んだ。[[1793年]]、母校の[[ケンブリッジ大学]]ジーザス・カレッジにて特別研究員となり<ref>Venn, J.; Venn, J. A., eds. (1922–1958). "Malthus, Thomas Robert". Alumni Cantabrigienses (10 vols) (online ed.). Cambridge University Press.</ref>、その間の1796年に﹃危機﹄を著した。出版はしなかったが、これが最初の著書となった<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修﹃ラルース 図説 世界史人物百科﹄Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年27ページ</ref>。
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⚫ | [[1798年]]に匿名で小冊子の主著『[[人口論]]』を著し<ref>日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、150頁。</ref><ref name="syosainomado">[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1403/12.html 経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か?]書斎の窓</ref>、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により[[人口過剰]]、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、[[社会制度]]の改良では回避され得ない」とする見方(「'''[[マルサスの罠]]'''」)を提唱した。 |
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[[1793年]]、母校の[[ケンブリッジ大学]]ジーザス・カレッジにて特別研究員となり<ref>Venn, J.; Venn, J. A., eds. (1922–1958). "Malthus, Thomas Robert". Alumni Cantabrigienses (10 vols) (online ed.). Cambridge University Press.</ref>、[[1805年]]には東インド・カレッジ(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の教授となった<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name="yasashii24" />。 |
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1799年、マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、﹃人口論﹄第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を非難するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、[[産児制限]]で最貧困層を救おうとする考えを﹁'''[[マルサス主義]]'''﹂ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、[[1805年]]には新しく設立された[[イギリス東インド会社|東インド会社]]付属学校︵通称ヘイリーベリー・カレッジ︶の政治経済学教授の職に付き<ref>Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.</ref>、官僚の育成に当たっている<ref name="marusasu">フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修﹃ラルース 図説 世界史人物百科﹄Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年28ページ</ref>。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった<ref name="yasashii24" />。
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⚫ | [[1798年]]に匿名で小冊子の主著『[[人口論]]』を著し<ref>日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、150頁。</ref><ref name="syosainomado">[http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1403/12.html 経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か?]書斎の窓</ref>、この中で「[[幾何級数]]的に増加する人口と[[算術級数]]的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち[[貧困]]が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方(「'''[[マルサスの罠]]'''」)を提唱した。 |
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1810年に﹃[[不換紙幣]]に関する論考﹄を、1814年には﹃[[穀物法|小麦法]]の効果についての考察﹄、1815年に﹃[[地代]]の性質と増加についての調査﹄などを著している。[[1820年]]には[[デヴィッド・リカード]]の経済説に反論した﹃[[:en:Principles of Political Economy (Malthus book)|経済学原理]] ﹄︵小林時三郎訳注、[[岩波文庫]]上下︶を著した。日本語訳書では﹃マルサス北欧旅行日記﹄︵小林時三郎、[[西沢保]]訳、[[未來社]]、2002年︶および﹃マルサス学会年報﹄︿マルサス学会編、1991年-2006年度版、2008年10月刊行、[[雄松堂出版]]﹀15冊がある。
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⚫ | マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を非難するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを「'''[[マルサス主義]]'''」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、 |
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⚫ | 1810年に『不換紙幣に関する論考』を、1814年には『小麦法の効果についての考察』、1815年に『地代の性質と増加についての調査』などを著している。[[1820年]]には[[デヴィッド・リカード]]の経済説に反論した『経済学原理』(小林時三郎訳注、[[岩波文庫]]上下)を著した。日本語訳書では『マルサス北欧旅行日記』(小林時三郎、[[西沢保]]訳、[[未來社]]、2002年)および『マルサス学会年報』〈マルサス学会編、1991年-2006年度版、2008年10月刊行、[[雄松堂出版]]〉15冊がある。 |
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マルサスは、[[東インド会社カレッジ]]の教授として終生務め、保養地の[[バース (イングランド)|バース]]で没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。 |
マルサスは、[[東インド会社カレッジ]]の教授として終生務め、保養地の[[バース (イングランド)|バース]]で没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。 |
2020年11月4日 (水) 20:00時点における版
古典派経済学 | |
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生誕 | 1766年2月14日 |
死没 | 1834年12月23日(68歳没) |
影響を 受けた人物 |
ジャン=シャルル=シスモンディ デヴィッド・リカード |
影響を 与えた人物 |
チャールズ・ダーウィン ジョン・メイナード・ケインズ |
実績 |
人口論 過少消費説(有効需要論)の主張 |