本文にも書かれているように、ら抜き言葉は、日本語の乱れと言うよりも寧ろ合理的な進歩だと思います。られる、で統一する方が曖昧で、よっぽど「乱れ」だと思います。いっそ「ら抜き言葉」として独立した項目にした方が良いのではないでしょうか。
--219.167.197.220 2007年5月11日 (金) 09:11 (UTC)
ら抜きの話は出典のない説が多すぎませんか?それに,﹁見解の一つとして~﹁ら抜き言葉﹂と呼ぶこと自体が疑問視される。﹂などは見解を述べているというより一方的な意見ですし,﹁﹁書ける﹂や﹁触れる﹂を可能表現たらしめている要素を~そういった言葉を非文法的として排除する観点そのものが根拠を失うこととなる。﹂などは,循環論法。﹁﹁ら抜き言葉﹂の否定論者は標準語圏における動詞の活用にまつわる誤った慣習に盲目的に従っているにすぎない~文法や合理性よりも﹁感覚﹂にもとづいてまず先に定着してしまったものであることを意味している。﹂も,文法はそもそも習慣であるし,古くからあった﹁られる﹂の語形よりも後に﹁れる﹂の形が生まれたわけで,その本来あった文法に照らし合わせれば,﹁見れる﹂等の形は非文と解釈されるのは当然。﹁合理性﹂﹁感覚﹂の問題ではない。︵動詞の活用を全て5段活用へと﹁合理化﹂した﹁みらない・みろう・みります・みる・みるとき・みれば・みれ﹂を多くの日本人が非文と解釈するのと同じ︶個人的にはら抜き擁護論者だけど,あまりにも一方的な記述︵量だけでなく質についても︶が多すぎだと思います。--Haruharu 2007年9月7日 (金) 18:58 (UTC)
一読して、やや客観性を欠くかなという印象を受けました。参考までに、前半部分について気づいたことを列挙いたします。斜体の部分は、本文からの引用です。
(1)土佐弁圏、名古屋弁圏、北陸地方、一部の中国地方などにおいては、かなり古くから、﹁れる﹂と﹁られる﹂を区別した動詞化が一般的となっている。
﹃﹁れる﹂と﹁られる﹂を区別した動詞化﹄とは具体的にどのような内容でしょうか。このことが﹁ら抜き﹂にどう関係するのでしょうか。説明が必要と思います。
(2)見解の一つとして、﹁ら抜き言葉﹂の語形は、従来から五段動詞に適用されてきた可能動詞化の法則を一段動詞にも批准させたもの、と解釈されうる。
﹁解釈﹂しているのは誰でしょうか。Haruharuさんもおっしゃっていますが、出展が必要と思います。また、他の解釈があるなら併記した方がよいと思います。
(3)彼らは、﹁動詞の可能表現をすべて﹁られる﹂で一括することは言葉の意味の多義化をもたらしかねない﹂と議論する。
﹁彼ら﹂とは誰でしょうか。出展が必要と思います。また、一つの見解だけでなく、他の見解も併記した方がよいと思います。
(4)従来、標準語圏においては、可能・受身・自発・尊敬といった種々の意味をすべて﹁られる﹂という語形で表すことが規定されてきたが、
﹁従来﹂とありますが、いつのことでしょうか。また、﹁標準語圏﹂とはどこのことでしょうか。説明があった方がよいと思います。
(5)この議論によると、﹁ら抜き言葉﹂は、日本語を乱すものではなく、むしろ日本語をより合理的な言語体系へと発展させるべく寄与する﹁機能分化﹂の現象として認識される。
このように結論付けるのは、論理の飛躍があるように感じます。これはひとつの見解に過ぎないと思うのですが・・・。
(6)﹁ら抜き言葉﹂の否定論者は標準語圏における動詞の活用にまつわる誤った慣習に盲目的に従っているにすぎない、という声がある
これは誰の﹁声﹂でしょうか。出展が必要と思います。また、この考え方とは異なる﹁声﹂も併記した方がよいと思います。
(7)日本人は従来から主語を明示しない文体を多用してきたが、これによって日本語における動詞の能動表現が貧窮化する一方で受動表現がより一般化してきたことは、
﹁主語を明示しない文体を多用してきた﹂ことは、必ずしも﹁受動表現﹂の一般化につながるとは思いません。論理の飛躍ではないでしょうか。
また、受動表現がより一般化してきたと断言するには、もう少し根拠なりデータなりが必要かと思います。私の周囲には、受動表現を好む人がいる一方、能動表現を好む人も少なくありません。
(8)﹁見れる﹂などの語が標準語圏において従来から正当な可能表現として台頭しえなかったのは、能動表現よりも受動表現のほうに馴れ親しんでいるという条件が既に当事者達の間で根づいていたことによって﹁見れる﹂よりも﹁見られる﹂の響きを感覚的に受容しやすくあったから、ということである。この事はつまり、﹁ら抜き﹂に先立つ﹁ら付き﹂の習慣が、文法や合理性よりも﹁感覚﹂にもとづいてまず先に定着してしまったものであることを意味している。
上記は事実でしょうか。根拠の提示が必要と思います。 --Lifeisluckmakeit 2007年9月8日 (土) 14:59 (UTC)
﹁歩った﹂,﹁歩って﹂は,関東・東北で広く使われている方言です.茨城在住の者ですが,老若男女日常的に使います.現在の版では,許容されない音便と受け取られる表記となっていますが,方言由来であることを明示した方がいいのではないかと思います.歴史とか,出典とかを示せないので,本文への補記はせず,参考としてノートに記すにとどめます.--Ihieda 2007年9月14日 (金) 23:56 (UTC)
﹁降りさしてください﹂が﹁さ入れ言葉﹂として掲載されていますが、これって﹁さ入れ﹂ですか? ただの使役ではないかと。
﹁さ入れ言葉﹂というのは﹁やらせてください﹂→﹁やら︻さ︼せてください﹂、﹁読ませる﹂→﹁読まさせる﹂など、使役の﹁-(s)ase﹂について、五段活用では不要なはずの﹁さ﹂が入ってしまった物を言うのだと思いますが……Creature 2008年6月17日 (火) 11:45 (UTC)
標記の部分、僭越ながら削除させていただきました。理由は以下のとおりです。
﹁さ入れ言葉﹂というのはあくまでも五段活用動詞に生じる現象であり、﹁降りる︵ラ行上一段活用動詞︶﹂+﹁さす︵助動詞﹁させる﹂の変種︶﹂であるところの﹁降りさす﹂﹁降りさして﹂を﹁さ入れ言葉﹂と呼ぶのは全くの誤りです。
上一段につく使役助動詞はもともと﹁させる﹂︵あるいはこの例に倣えば﹁さす﹂︶が正しいのであり、その証拠に﹁さ﹂をぬいて﹁降りせる﹂﹁降りせて﹂﹁降りす﹂﹁降りして﹂などとしてみれば、誤用にもならない、全くあり得ない形です。
また、よく見れば一目瞭然ですが、﹁降ろす﹂は﹁降りさす﹂から﹁さ﹂を抜いたものではなく、それ自体で独立の動詞︵サ行五段︶であり、この中に助動詞は含まれていません。
このように、この記述は﹁さ入れ言葉﹂とは何ら関係がありません。
が、にもかかわらず﹁一見関係ありそうに見える﹂ため、読者を混乱させ、正しい理解のさまたげになる虞れがあります︵記入された方も混乱されていたのかと思います︶。
ちなみに、金田一はおそらく﹁降りさす﹂と﹁降ろす﹂の形態ではなく意味・語用を比較しているのであり、その意図は﹁降ろす﹂などの他動詞が新たに使役的意味ももつようになったことに関する指摘ではなかったかと思われます。
以上です。どうかよろしくご検討ください。 ぎゅうひ 2008年7月8日 (火) 00:51 (UTC)
- 上記Creatureさん、死郎さんの指摘と重複してしまいました…。 ぎゅうひ 2008年7月8日 (火) 01:24 (UTC)
1966年放送のラジオドラマ﹃銀河鉄道の夜﹄に聞かれる語尾上げについて先日触れましたが、興味のある方のためにどんなものだったか書いておきます。原作は著作権が切れていますが、ラジオドラマは切れていません。著作権のあるものでも、説明のための部分的な引用ならば法的には問題ないはずですが、ウィキペディアでは念のため引用は避けるべきだとされています。そこで、どのような語尾上げだったのか、違う内容で文構成を同じにして説明したいと思います。一種パロディーのようになってしまいますので、本文ではなくこちらのノートで。
﹁さあみんな画面のほうを見て? このウィキペディアのサイトの中で、バグの報告だと言われたり? リンク先の更新状況だと言われたりした? このぼんやりと青いものは何だろう﹂
﹁ところで今夜はその特別ページのリンク元だから? みんな今夜はようくお知らせを読むように﹂
このようなものでした。
モノノハズミ 2008年8月13日 (水) 22:40 (UTC)
モノノハズミさん、お世話様です。
実物を聴いていないので断言はできませんが、﹁?﹂の位置から察するに、それはおそらく構文マーカーとしての語尾上げなのでしょうね。子ども向けの読み聞かせなどによくあるケースで、センテンス中の構文の大きな切れ目になる部分に語尾上げを付加することによって、長く複雑な文の構造を見えやすくしているのだと思います。
いっぽう本文のほうの記述は別の現象を指しているのではないでしょうか。
例示されている ﹁今朝ねバタートースト?食べたんだけど﹂ という文で言えば、﹁バタートースト﹂ という単語に語尾上げを付加することによって、﹁知ってるよね? あのバタートーストとかいうやつ﹂ とか、﹁もしかしたら語弊があるのかもしれないけど、まあとりあえずバタートーストと呼んでみるけど、よかったかな?﹂ といったような、微妙なニュアンスを与えているものだと思います。 ﹁バタートースト﹂ と後続の ﹁食べた﹂ の間に構文上の大きな切れ目はありませんよね。 ︵ちなみに最近の若者言葉では、﹁食べたんだけどぉ﹂ とか ﹁リンク元だからぁ﹂ のような ﹁語尾伸ばし﹂ が構文マーカーを担っていることが多いです。︶
これら両者はきちんと区別して解説したほうがいいのだろうと私は思うのですが、いかがでしょうか? 時間があれば私も本文の加筆をしてみたいと思いますが、とりあえずはコメントだけで書き逃げです。 ごめんなさい。 ぎゅうひ 2008年8月16日 (土) 11:44 (UTC)
なるほど、﹁今朝ねバタートースト?食べたんだけど﹂のようなものとラジオドラマのようなものとでは例と日本語の乱れとされる語尾上げとはちょっと種類が違うかもしれませんが、語尾上げを日本語の乱れだと考えている人たちがどういう認識でいらっしゃるかが問題です。前者のみを語尾上げと呼んでいるのか、後者も含めて語尾上げと呼んでいるのか。
私自身は語尾上げを日本語の乱れだとは思いませんが、語尾上げを日本語の乱れだと考える人がいることは知識として知っています。ラジオドラマの例は、語尾上げを日本語の乱れだと考えるような人ならば、きっとこのような例も語尾上げの一種と考えるに違いないと予想して書きました。
モノノハズミ 2008年8月19日 (火) 10:41 (UTC)--︵訂正︶モノノハズミ 2008年8月19日 (火) 10:51 (UTC)
ラジオドラマの語尾上げは、井上史雄﹃日本語ウォッチング﹄︵岩波新書︶の193頁で﹁先生口調﹂と呼んでいるものかもしれません。井上は、これと半疑問イントネーションを同じ流れのものと捉えています。--モノノハズミ 2009年9月23日 (水) 01:40 (UTC)
﹁問うた﹂﹁問うて﹂という表現がよく使われていますが、ワ行五段活用の規則どおりならば﹁問った﹂﹁問って﹂となるはずです。これは﹁行った﹂と同様に標準として定着しているのでしょうか、それとも乱れの一種でしょうか。﹁乞うた﹂についてはどうでしょうか。 --Tails 2008年9月30日 (火) 08:14 (UTC)
﹁問うた﹂﹁乞うた﹂が﹁行なった﹂﹁笑った﹂のような促音便にならなかったのは、﹁問った﹂﹁乞った﹂にしてしまうと﹁取った﹂﹁凝った﹂などと紛らわしいためではないでしょうか。いずれにせよ、これは単に古い形が残っているというだけで、“乱れ”とは言えないと思います。--死郎 2008年9月30日 (火) 18:04 (UTC)
死郎さんの推測には、﹁行った﹂は﹁言った﹂と紛らわしいのになぜ﹁行った﹂というのかという疑問が浮かびます。規則とおりなら﹁行いた﹂となるはずなのに、その規則を外してまでわざわざ紛らわしい形にしていますよね。乱れとは言えないという点では同感です。--モノノハズミ 2008年10月3日 (金) 14:43 (UTC)
いや。ワ行五段活用は﹁言った﹂のほうなので、なぜ﹁言うた﹂にならないのか――ということだと思いますが︵﹁行った﹂のほうは﹁行いた﹂ではなく﹁行きた﹂︶。あれから考えていたのですが、もう一つ付け加えます。そもそも﹁問うた﹂や﹁乞うた﹂といった語が現代の共通語で聞かれることがそれほどなく、別の語に言い換えられる︵﹁訊ねた﹂﹁求めた﹂など︶か、使ったとしても方言もしくは、わざと古めかしい言い回しとしてだったりするのではないでしょうか。その点で、新たな“乱れ”とは捉えられていないのではないかと思いました。で、﹁言うた﹂についても方言では存在しますよね。なぜ共通語では﹁言った﹂なのかというのは、おそらく多用される余り﹁行った﹂とコンフリクトを起こしても、促音便の形で使うほうが利便性に優っているからではないかと……ここは苦しい説明ですけど、規則には例外が付きものということでご容赦ください︵苦笑︶。--死郎 2008年10月3日 (金) 16:42 (UTC)
いや、働く→働いた、聞く→聞いた、書く→書いたですから、﹁行く﹂は﹁*行いた﹂になりそうなものでしょう? つまり、﹁行く﹂は規則を外してまでわざわざ﹁言う﹂と紛らわしい形にしており、﹁言う﹂は﹁言う﹂で﹁問う﹂などと同様にちょっとした規則違反さえすれば﹁行く﹂と紛らわしい形を回避できるのにそれをしていないということですね。
﹁問うた﹂や﹁乞うた﹂の使用頻度に関しては、それほど低くはないはずです。死郎さんも私も﹁問うた﹂というのが方言でも個人の癖でもなく共通語であると学習できるほどの回数﹁問うた﹂という形を聞いているのですから。あまり使用頻度の低い動詞だと、不規則な形を維持できずに規則的な形に合流してしまうでしょう。
では私︵モノノハズミ︶は﹁問うた﹂﹁乞うた﹂をどう説明するのかというのかというと、正直よく分かりません。単純にそのほうが言いやすいからではないかとも思いましたが、﹁取った﹂﹁凝った﹂は別に言いにくくありませんものね。
モノノハズミ 2008年10月4日 (土) 22:22 (UTC)
ああ、そうですね。仰るところ理解しました。
音便の項目やこんなページを見てみても、たしかに﹁行きて﹂→﹁行って﹂は例外になっています。さて。それが何故なのか……軽い気持ちで考察を始めたものの、ちょっと行き詰まってしまいました。ごめんなさい。
さて。仰るような意味では﹁問うた﹂や﹁乞うた﹂の“使用頻度”は低くないということで了解です。しかし、それが﹁やや古風﹂に聞こえる︵というのは逆に、上で挙げたような﹃音便を使った表現﹄が存在しないから?︶という部分の主張は変わりません。なので﹁共通語ではあるけれども、口語的ではない﹂かつ、当然﹁乱れではない﹂という辺りがこれについての解なのでは、と思う次第です。--死郎 2008年10月5日 (日) 15:58 (UTC)
「違う」を「違かった」「違くない?」としたり「好きではない」→「好きくない」としたりすることへの違和感は「違った」「違わない」・「好かない」など従来からある表現と異なることに起因するものではないでしょうか.
専門的なことは判りませんが,従来からある表現とどのように違うのか(若しくは違わないのか)が判ったほうが良いのではないでしょうか.
--60.32.94.213 2009年1月15日 (木) 03:09 (UTC)
以前は、単語と単語との間に中黒﹁・﹂を入れるのが主流だった気がします。小学校の国語の教科書にも中黒を入れると書かれていた記憶があります。たとえば、
(今風?) (従来なら)
パラボラアンテナ パラボラ・アンテナ
コンピューターネットワーク コンピューター・ネットワーク
などということです。
外来語表記において、中黒の使用について標準的な決まりがあるのでしょうか。それとも、単に表記の揺れでどちらが正しい︵または、より適切︶というとは言えない問題でしょうか。
もし日本語の乱れと言えるのなら、記述に加えるのがいいと思います。--しまでん 2009年7月22日 (水) 15:03 (UTC)
除去した者です。形容詞の語幹用法として万葉の昔からあるものですから、これを﹁乱れ﹂と見なすのは難しいと思います。--КОЛЯ 会話 2010年9月17日 (金) 15:34 (UTC)
追記について。もちろん﹁万葉の昔から現代に至るまで一貫して存在し続けてきた﹂という意味です。口頭語表現としては現代はもちろん、戦前にも、明治にも、江戸時代にも存在する表現です。文学作品の会話文にふつうに出てきます。もしや冒頭部の﹁規範﹂というのは﹁文章に書くときの規範﹂という意味でしょうか。もし﹁文章に書くときの規範との食い違い﹂という意味で考えるのであれば話は違ってきます。--КОЛЯ 会話 2010年9月17日 (金) 16:52 (UTC)
КОЛЯさんのおっしゃるように、﹁乱れた日本語﹂とは断言できないのではないでしょうか。また﹁い抜き形容詞﹂という用語ですが、試しに﹁"い抜き形容詞"﹂でグーグル検索をかけたところ、40件しかヒットしませんでした。﹁い抜き形容詞﹂という用語を使用するのは不適当に思います。--Kyoww 2010年9月17日 (金) 15:39 (UTC)
ShikiHでございます。当該の用法は正用法と感じられます。規範からの逸脱ではないので、日本語の乱れの記事に書くのは不適当と考えます。あえて言うなら﹁い抜き形容詞﹂という用語が逸脱してます。--ShikiH 2010年9月17日 (金) 16:44 (UTC)
ひきつづきShikiHでございます。Namazu-tronさんは、なんで会話文に普通に出てくる物を乱れとするのですか? 単なる terminology の問題のような気がします。古来からあり、規範から逸脱していないような現象に新しい名前をつけるとあたかも新しい現象のように感じ、乱れととらえられるのではありませんか。﹁秋になると気が滅入る﹂と言えばたいしたことがないが、﹁秋季好発季節性気分循環症﹂なんていうと精神状態の正常からの逸脱みたいに感じるようなものです。--ShikiH 2010年9月17日 (金) 17:56 (UTC)
「尻上がりイントネーション」を日本語の乱れと指摘した文献はあるのでしょうか?現在出典として挙がっている。「アクセント・イントネーション・リズムとポーズ」[2]は単なるアクセントの解説本ですよね?「日本語の乱れである」などと明記しているとは考えにくいのですが。--fromm 2011年2月19日 (土) 03:08 (UTC)
- 除去しました。--fromm 2011年6月29日 (水) 05:20 (UTC)
文部科学省は2005年、「数年以内に見直しを検討する」
とする出典の明記をお願いします。文科省サイト[3]を検索しましたが、対応する記載はなさそうです。--fromm(会話) 2012年9月4日 (火) 04:50 (UTC)
日本語の「乱れ」としてとらえるのは中立的ではないのではないでしょうか?
百科事典は中立的にあるべきですから、このような保守的な考えを百科事典に載せることは改めるべきです。
これを読んだ人は、果たして日本語は乱れている'と言う意見もある'と意味をとるでしょうか。--クラゲ(会話) 2013年7月20日 (土) 03:09 (UTC)
この項目やバイト敬語の項目では、ある表現について﹁必ずしも間違いとはいえない﹂といった擁護方向の記述を出典つきで充実させると、批判方向の記述もろともその表現についての記述をまるごと削除したがる編集者がいるようです。例えば、この項目では、﹁とんでもありません﹂や﹁全然+肯定﹂に関して間違いではないとする出典つきの記述をしてしまったので、そのうち﹁とんでもありません﹂や﹁全然+肯定﹂に関係した記述をまるごと削除する人がいるのではないかと危惧しています。擁護意見を削除したいのが出発点で、しかし出典つきの擁護意見を削除する一方で批判意見を残す露骨に恣意的な編集はさすがに恥ずかしくて、いっそ批判意見も擁護意見ももろとも削除してしまえとなるのでしょうか。それとも擁護意見に納得するあまりこの表現は乱れなりバイト敬語なりではないのだから掲載する必要がないとなるのでしょうか。いずれにせよ、やめてほしいですね。それでは記事がどんどんやせ細ってしまいます。批判意見も擁護意見も両方掲載された記事にしていきましょう。--モノノハズミ︵会話︶ 2017年7月30日 (日) 06:17 (UTC)
古い文学作品での全然+肯定の具体例は、ちょっと探すだけでいくらでも見つかりますね。むしろ全然+否定の例を見つけることができませんでした。
すると警保局長は全然出版に反対の意を仄ほのめかした。
—夏目漱石、『『煤煙』の序』1909(明治42)年
妻を迎へて一家團樂の樂を得ようとして、全然失敗した博士も、此城丈は落されまいといふので、どうしても母君と一しよに食事をする。
—森鴎外、『半日』1909(明治42)年
元来作家志望でもなかつた僕のとうとう作家になつてしまつたのは全然彼等の悪影響である。
—芥川龍之介、『「仮面」の人々』1924(大正13)年
これらの例を本文に組み込んで差し支えないでしょうか? 本文の出典となっている﹃文化庁国語課の勘違いしやすい日本語﹄でも同じように知名度の高い作家の使用例を盛んに引いた後で、文豪も使っているのだから全然+肯定が間違いだということは全然ないのだという論理を展開していたように記憶しています。上の例は私が探したものですが、﹃文化庁国語課の勘違いしやすい日本語﹄と例示まで同じにしなくてはならないということはありませんよね? そこまで同じにすると著作権の問題も出てくるかもしれませんし。 --モノノハズミ︵会話︶ 2018年7月22日 (日) 21:57 (UTC)
出典で﹁例示→主張﹂の展開が確認されているのであれば、著作権の問題も考慮すると、例を変えたモノノハズミ氏の方法でいいと思います。--タバコはマーダー︵会話︶ 2018年7月25日 (水) 15:08 (UTC)
図書館で出典を確認しようとしましたが、間の悪いことに貸出中でした。現状としては、用例それぞれには夏目漱石﹃﹃煤煙﹄の序﹄などの出典があり、全然+肯定が間違いでないことにも本文に示された出典がありますが、用例がある﹁から﹂間違いではないという﹁から﹂の部分のみ未確認ですね。--モノノハズミ︵会話︶ 2018年7月28日 (土) 05:18 (UTC)
﹃文化庁国語課の勘違いしやすい日本語﹄を確認しました。記憶と違って用例を引いているのは一件だけで、﹁盛んに﹂は引いていませんでした。盛んに用例を引いていたのは﹃問題な日本語﹄でした。両者が記憶の中でごっちゃになっていたようです。また、戦前の用例を引いた上で戦前からある﹁から﹂間違いではないと明確に接続詞でそれが根拠だと示すことはなく、文章の流れから戦前から用例があることが間違いではないとする根拠なのだとそれとなく示す書き方でした。本文もそのような書き方にしようと思います。﹃文化庁国語課の勘違いしやすい日本語﹄も一例とはいえ具体的な用例を紹介し、﹃問題な日本語﹄はいくつも紹介していることから、ウィキペディアでも戦前の用例をいくつか紹介することは問題ないと考えます。--モノノハズミ︵会話︶ 2018年8月11日 (土) 11:12 (UTC)