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「バーミンガム市交響楽団」の版間の差分

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[[1920年]]に'''バーミンガム市管弦楽団'''('''City of Birmingham Orchestra''')として発足、同年9月に行なわれた最初の演奏会は、[[エドワード・エルガー|エルガー]]を指揮者に迎えて行われ、オーケストラ設立を強力に後押しした[[グランヴィル・バントック]]の演奏会序曲《サウル》がプログラムにとり上げられた。[[1948年]]に現在のように改名された。

[[1920年]]に'''バーミンガム市管弦楽団'''('''City of Birmingham Orchestra''')として発足、同年9月に行なわれた最初の演奏会は、[[エドワード・エルガー|エルガー]]を指揮者に迎えて行われ、オーケストラ設立を強力に後押しした[[グランヴィル・バントック]]の演奏会序曲《サウル》がプログラムにとり上げられた。[[1948年]]に現在のように改名された。



早くから録音活動や定期的な演奏活動を続けてきたにもかかわらず、国際的な名声が得られるようになったのは、[[1980年]]に[[サイモン・ラトル]]が就任してからだった。それからの演奏水準やレパートリーの拡張は著しく、ラトルのもとで[[ヨーロッパ]]随一の合奏能力が謳われるようになり、とりわけ[[ロマン派音楽]]や[[現代音楽]]の解釈で有名になった。又、[[ハイドン]]の[[交響曲]]の録音などでは、早くもピリオド奏法を取り入れた演奏を示している。ラトルの任期中に本拠地を従来のバーミンガム・タウン・ホールから、バーミンガム市国際コンベンション・センター内部のシンフォニー・ホールに移した。[[1990年]]に提携作曲家(Composer in Association)制度が創設され、[[マーク=アンニー・タネジ]]がその地位に就いた。[[1995年]]からは[[ジュディス・ウィア]]がその座を勤めている。

早くから録音活動や定期的な演奏活動を続けてきたにもかかわらず、国際的な名声が得られるようになったのは、[[1980年]]に[[サイモン・ラトル]]が就任してからだった。それからの演奏水準やレパートリーの拡張は著しく、ラトルのもとで[[ヨーロッパ]]随一の合奏能力が謳われるようになり、とりわけ[[ロマン派音楽]]や[[現代音楽]]の解釈で有名になった。又、[[ハイドン]]の[[交響曲]]の録音などでは、早くもピリオド奏法を取り入れた演奏を示している。ラトルの任期中に本拠地を従来のバーミンガム・タウン・ホールから、バーミンガム市国際コンベンション・センター内部のシンフォニー・ホールに移した。[[1990年]]に提携作曲家(Composer in Association)制度が創設され、[[マーク=アンニー・タネジ]]がその地位に就いた。[[1995年]]からは[[ジュディス・ウィア]]がその座を勤めている。



サイモン・ラトルが[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者に転出したのを機に、[[フィンランド]]の指揮者[[サカリ・オラモ]]がその後任に就任した。

サイモン・ラトルが[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者に転出したのを機に、[[フィンランド]]の指揮者[[サカリ・オラモ]]がその後任に就任した。


2007年1月24日 (水) 17:29時点における版


City of Birmingham Symphony Orchestra, CBSO

1920City of Birmingham Orchestra91948

19801990Composer in Association1995


ラトル以前の主要な歴代首席指揮者

参照事項・関連サイト