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'''ヒメラ'''︵[[ギリシア語]]‥{{lang|grc|Ἱμέρα}}︶はシケリア︵現在の[[シチリア]]︶の重要な[[古代ギリシア|ギリシア]][[植民都市]]の一つである。島の北岸、同じ名前の川︵現在の[[:en:Grande River (Sicily)|グランデ川]]︶の河口に位置し、パノルムス︵現在の[[パレルモ]]︶とケファロイディオン︵現在の[[チェファル]]︶の間にあった。 |
'''ヒメラ'''︵[[ギリシア語]]‥{{lang|grc|Ἱμέρα}}︶はシケリア︵現在の[[シチリア]]︶の重要な[[古代ギリシア|ギリシア]][[植民都市]]の一つである。島の北岸、同じ名前の川︵現在の[[:en:Grande River (Sicily)|グランデ川]]︶の河口に位置し、パノルムス︵現在の[[パレルモ]]︶とケファロイディオン︵現在の[[チェファル]]︶の間にあった。現在の行政区分では[[パレルモ県]][[テルミニ・イメレーゼ]]に属し、市の中心部からは12キロメートル程東に遺跡がある。
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==歴史== |
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===建設および初期の歴史=== |
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[[image:Imera tempio della vittoria mod.jpg|thumb|250px|勝利の神殿の復元図]] |
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ヒメラはシケリアのこの地域では最初の植民都市であり、シケリア西部の[[カルタゴ]]の支配領域の直ぐ東に位置する戦略的前哨基地であった。[[トゥキディデス]]はシケリアのこの沿岸で唯一のギリシア都市であると述べているが<ref>vi. 62, vii. 58.</ref>、これは「独立都市」と理解すべきと思われる。ミュラエ(現在の[[ミラッツォ]])もシケリア北岸のギリシア都市であったが、ザンクル(現在の[[メッシーナ]])の従属都市であった。全ての専門家がヒメラもまたザンクルの植民地であったと意見が一致しているが、トゥキディデスはザンクルからの移民だけでなく、かなりの数の[[シラクサ|シュラクサイ]]からの追放者がヒメラに居住しており、結果として[[ハルキス|カルシディア]](ザンクルを建設した[[イオニア]]人都市)の制度と |
ヒメラはシケリアのこの地域では最初の植民都市であり、シケリア西部の[[カルタゴ]]の支配領域の直ぐ東に位置する戦略的前哨基地であった。[[トゥキディデス]]はシケリアのこの沿岸で唯一のギリシア都市であると述べているが<ref>vi. 62, vii. 58.</ref>、これは「独立都市」と理解すべきと思われる。ミュラエ(現在の[[ミラッツォ]])もシケリア北岸のギリシア都市であったが、ザンクル(現在の[[メッシーナ]])の従属都市であった。全ての専門家がヒメラもまたザンクルの植民地であったと意見が一致しているが、トゥキディデスはザンクルからの移民だけでなく、かなりの数の[[シラクサ|シュラクサイ]]からの追放者がヒメラに居住しており、結果として[[ハルキス|カルシディア]](ザンクルを建設した[[イオニア]]人都市)の制度とドーリス方言が使われる都市となった。 |
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ヒメラの建設は、ミュラエの建設に続いて行われたと︵その位置関係からして当然と考えられるが︶、[[ストラボン]]もスキムヌス︵[[:en:Scymnus|en]]︶も述べている‥トゥキディデスは建設日に関しては触れていないが、[[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]はカルタゴに破壊されるまで240年間存続したとしていることから、逆算すると[[紀元前648年]]に建設されたことになる<ref>Thuc. vi. 5; Strab. vi. p. 272; Scymn. Ch. 289; Diod. xiii. 62; Hecat. ''fr.'' 49; Scyl. p. 4. § 13.</ref>。その初期の歴史に関してはほ |
ヒメラの建設は、ミュラエの建設に続いて行われたと︵その位置関係からして当然と考えられるが︶、[[ストラボン]]もスキムヌス︵[[:en:Scymnus|en]]︶も述べている‥トゥキディデスは建設日に関しては触れていないが、[[シケリアのディオドロス|ディオドロス]]はカルタゴに破壊されるまで240年間存続したとしていることから、逆算すると[[紀元前648年]]に建設されたことになる<ref>Thuc. vi. 5; Strab. vi. p. 272; Scymn. Ch. 289; Diod. xiii. 62; Hecat. ''fr.'' 49; Scyl. p. 4. § 13.</ref>。その初期の歴史に関してはほとんど分かっていない。[[アリストテレス]]の曖昧な言では<ref>Rhet. ii. 20.</ref>、紀元前490年頃までの一時期、アクラガス︵現在の[[アグリジェント]]︶の[[僭主]][[ファラリス]]の支配下にあったとされているが、他にそれを裏付ける資料は無い。またザンクルの僭主スキテス︵[[:en:Scythes|en]]︶が追放されたときに、彼を受け入れている<ref>Herod. vi. 24.</ref>。それからしばらく後、ヒメラは[[テリルス]]が独裁することになるが、テリルスはレギオン︵現在の[[レッジョ・ディ・カラブリア]]︶とメッセネ︵ザンクルから改名︶の双方の僭主となっていた[[アナクシラス]]と同盟関係を築いていた。しかしテリルスはアクラガスの僭主[[テロン]]の勢力に対抗できず、ヒメラから追放された。テリルスはレギオンのアナクシラスを頼ったが、アナクシラスとカルタゴ王[[ハミルカル1世|ハミルカル]]は賓客関係にあった。このため、[[紀元前480年]]にカルタゴはシケリアへ大規模な遠征軍を派遣することとなる<ref>''Id.'' vii. 165.</ref>。
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===最初のカルタゴとの衝突=== |
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==著名な人物== |
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詩人[[ステシコロス]]はヒメラの出身であるといわれているが、実際の生誕地は[[マグナ・グラエキア]]のメタウロス︵現在の[[ジョイア・タウロ]]︶である<ref>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/565868/Stesichorus</ref><ref>{{ |
詩人[[ステシコロス]]はヒメラの出身であるといわれているが、実際の生誕地は[[マグナ・グラエキア]]のメタウロス︵現在の[[ジョイア・タウロ]]︶である<ref>http://www.britannica.com/EBchecked/topic/565868/Stesichorus</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://writershistory.com/index.php?option=com_content&task=view&id=820&Itemid=32 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015年7月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141219153824/http://writershistory.com/index.php?option=com_content&task=view&id=820&Itemid=32 |archivedate=2014年12月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>http://www.calabria.nu/magna.htm#Like</ref><ref>https://books.google.com/books?id=xFhMG7G1q5kC&pg=PA254&lpg=PA254&dq=Stesichorus+was+born+in+Metauros&source=bl&ots=RDiNzxAeNk&sig=bhoz-8O94Ns0NdqfrJaJDV5azC0&hl=en&sa=X&ei=I0y1U4XFDoemkQW1_ICYCw&ved=0CC8Q6AEwBA#v=onepage&q=Stesichorus%20was%20born%20in%20Metauros&f=false</ref><ref>http://www.forgottenbooks.com/readbook_text/A_History_of_Ancient_Greek_Literature_1000014498/125</ref>。紀元前630年、ステシコロスはヒメラに移住し、晩年をそこで過ごして詩を書いた。[[ピンダロス]]が讃える[[古代オリンピック]]の勝者であるエルゴテレス︵[[:en:Ergoteles of Himera|en]]︶もヒメラ市民ではあったが、ここの生まれではない<ref>Pind. ''Ol.'' xii.; Paus. vi. 4. § 11.</ref>。一方、シュラクサイの僭主アガトクレスはテルマエで生まれている<ref>Diod. xix. 2.</ref>。
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==脚注== |
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[[Category:イタリアの考古遺跡]] |
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2023年12月16日 (土) 11:11時点における最新版
Ἱμέρα | |
![]() ヒメラの勝利の神殿の遺跡 | |
所在地 | シチリア州パレルモ県テルミニ・イメレーゼ市ブオンフォルネッロ |
---|---|
座標 | 北緯37度58分 東経13度49分 / 北緯37.967度 東経13.817度座標: 北緯37度58分 東経13度49分 / 北緯37.967度 東経13.817度 |
種類 | 植民都市 |
歴史 | |
出来事 | |
追加情報 | |
管理者 | Soprintendenza BB.CC.AA. di Palermo |
一般公開 | あり |
ウェブサイト | Area Archeologica e Antiquarium di Himera |
歴史[編集]
建設および初期の歴史[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Imera_tempio_della_vittoria_mod.jpg/250px-Imera_tempio_della_vittoria_mod.jpg)
最初のカルタゴとの衝突[編集]
第一次ヒメラの戦いの後[編集]
この勝利により、テロンのヒメラに対する統治権は、アクラガスと同様に疑いの余地がないものとなった。ただテロンはアクラガスに集中していたようで、ヒメラの統治は息子のトラシダイオスに任せた。しかしこの若者は、暴力的な圧制のために直ぐに民心を失ってしまった。ヒメラの市民はそのときテロンへの敵意のために、シュラクサイの僭主ヒエロン1世に助けを求めたが、その期待は裏切られヒエロンはテロンにこの計画を告げた。テロンはヒメラ市民に報復し、不平市民の多くを殺害し、また多くを追放した[8]。その後、この圧制のためにヒメラの人口が大きく減少すると、様々の地域から多くの市民を移住させて、街の繁栄を取り戻そうとした。移住者の多くはドーリア人であったため、従来の住人であるイオニア人と交じり合って暮らして行くこととなったが、この時点でヒメラはドーリア人の都市となった。ヒメラはシケリアの他のドーリア人都市の制度と政策を受け入れた[9]。この大規模な移住は紀元前476年に行われたと推定され[10]、紀元前472年にテロンが死去するまでその支配下にあった。テロンの死後トラシダイオスが権力を引き継いだが、シュラクサイのヒエロンに戦争を仕掛けて敗北し、アクラガスからもヒメラからも追放された[11]。紀元前466年にヒメラはシュラクサイを支援する兵士を送っていることから、この時期には既にトラシダイオスのくびきから開放されていたことが分かっている。その後紀元前461年頃にはヒメラを追放されていた市民も戻ることが許され、新市民と共に騒乱なく生活した[12]。ディオドロスによると、この時期からしばらくの間、市民間の紛争もなく幸運であったと述べており[13] 、他のシケリアの都市と同様に半世紀の間繁栄を維持することができた。 ヒメラの再和解︵紀元前461年頃︶からカルタゴによる破壊︵紀元前408年︶までの期間は、一般的に平和で繁栄した時代と言われており、この間に分かっている唯一の出来事は、紀元前415年に実施されたアテナイのシケリア遠征に関するものである。ヒメラはシュラクサイへの支援を最初に表明した都市の一つであった。このため、アテナイ軍の司令官であるニキアス︵en︶が艦隊を率いてヒメラの眼前に現れたとき、ヒメラはその入港を拒否した。それからしばらくの後、シュラクサイを支援するためにスパルタのギュリッポスが上陸したのはヒメラであった。ギュリッポスはヒメラから内陸部を通ってシュラクサイに進軍したが、多くのヒメラ市民も従軍した[14]。カルタゴによる破壊[編集]
テルマエの建設[編集]
ヒメラの位置[編集]
多数の遺物と、さらには温泉そのものから、テルマエの位置に関しては疑問の余地はないが、より古代の都市であるヒメラの場所に関しては最近まで議論の対象となっていた。ヒメラの名前はヒメラ川に由来するものであるが、16-17世紀の歴史家フィリップ・クルーヴァー︵ee︶は、テルミニのすぐ西を流れるサン・レオナルド川がヒメラ川で、ヒメラはその左岸にあったと考え、19世紀まではそれが主流となっていた。この仮説では、住民は川の左岸から右岸に移動しただけであり、ヒメラとテルマエが同一の都市と認識されていたことを説明できる[33]。他方で、サン・レオナルド川がヒメラ川であると仮定するには問題点もあった‥ヒメラ川に関する各種のデータは、16世紀の歴史家であるトマソ・ファッツェーロ︵en︶が唱えたように、その河口がテルミニの東8マイルにある現在のグランデ川︵en︶と一致する。現在では殆どの学者がこの説を受け入れている[34]。キケロが﹁新しい都市は古い都市から遠くない場所に建設された﹂と記載してることから[32]、8マイルの距離は離れすぎているとは言えないし、また﹁同じ領域﹂[32]との説明もあることから、非常に近接していた訳でもないと推定される。さらに付け加えるならば、カルタゴ人にとって自身の植民都市であるソルスやパノルムスに近い場所に新しい都市を建設する︵すなわちヒメラより西側︶ことが望ましかったと思われる。ファッツェーロの説は、周囲の状況からも裏付けられている。海岸沿いのトッレ・ディ・ボンフォルネッロ︵グランデ川の左岸で河口近く︶をヒメラとするもので、そこには何の遺跡も残ってはいなかったが、花瓶や青銅製品、また多くの墓室が発掘されていた[35]。他方、クルーヴァーも他の歴史家も、ヒメラ川西岸の古代の遺物に気づいていなかった。遺跡・遺物[編集]
現在残っている遺跡はニーケーに捧げられた勝利の神殿︵en︶のみである。ドーリア式の神殿で紀元前480年のカルタゴに対する勝利を記念したものといわれている︵但し、最近では何人かの学者がこの説を疑っている︶。神殿の南側にはネクロポリスがあった。ここで発見された遺物のいくらかは小さな古代芸術博物館に保管されているが、より重要なものはパレルモの考古学博物館に展示されている。著名な人物[編集]
詩人ステシコロスはヒメラの出身であるといわれているが、実際の生誕地はマグナ・グラエキアのメタウロス︵現在のジョイア・タウロ︶である[36][37][38][39][40]。紀元前630年、ステシコロスはヒメラに移住し、晩年をそこで過ごして詩を書いた。ピンダロスが讃える古代オリンピックの勝者であるエルゴテレス︵en︶もヒメラ市民ではあったが、ここの生まれではない[41]。一方、シュラクサイの僭主アガトクレスはテルマエで生まれている[42]。脚注[編集]
- ^ vi. 62, vii. 58.
- ^ Thuc. vi. 5; Strab. vi. p. 272; Scymn. Ch. 289; Diod. xiii. 62; Hecat. fr. 49; Scyl. p. 4. § 13.
- ^ Rhet. ii. 20.
- ^ Herod. vi. 24.
- ^ Id. vii. 165.
- ^ Herod. vii. 166, 167; Diod. xi. 20-23; Pind. Pyth. i. 152.
- ^ Herod. l. c.
- ^ Diod. xi. 48.
- ^ Id. xi. 49.
- ^ There is a confusion about this date, though, because Diodorus relates the circumstances in the year of Phaedon, Ol. LXXVI. 1, which would place it in 476 BCE, he adds that the new colony subsisted 58 years, until its destruction by the Carthaginians, which would refer it to the year 466 BCE. This last date is clearly incompatible with the fact that Theron died in 472 BCE.
- ^ Id. xi. 53.
- ^ Id. xi. 68, 76.
- ^ a b xi. 49.
- ^ Thucydides vi. 62, vii. 1, 58; Diod. xiii. 4, 12.
- ^ Diod. xiii. 59-62; Xen. Hell. i. 1. 37.
- ^ Id. xiii. 114.
- ^ Id. xiv. 47, 56.
- ^ Cicero ''In Verrem ii. 3. 5.
- ^ Diod. xiii. 79.
- ^ Cicero In Verrem ii. 3. 5, iv. 33.
- ^ Diod. xix. 71.
- ^ Strabo vi. p. 272; Mel. ii. 7. § 16; Plin. iii. 8. s. 14.
- ^ Θερμαὶ αἱ Ἱμερᾶαι, Pol.; Θερμαὶ Ἱμέραι, Ptol.; Θερμὰ, Θερμὰ Ἱμεραῖα, Diod.
- ^ Diod. iv. 23, v. 3; Pindar Ol. xii. 28.
- ^ Pol. i. 24; Diod. xxiii. 9. Exc. H. p. 503.
- ^ Pol. i. 39; Diod. xxiii. 20. Exc. H. p. 506.
- ^ quod semper in amicitia fideque mansissent, Cicero In Verrem ii: 37.
- ^ Id. ii. 46, 75, iii. 42.
- ^ Castell. Inscr. Sicil. p. 47; Gruter. Inscr. p. 433, no. 6..
- ^ Plin. iii. 8. s. 14.
- ^ Ptol. iii. 4. § 4; Antonine Itinerary p. 92; Tabula Peutingeriana.
- ^ a b c Cicero In Verrem ii. 3. 5.
- ^ Silius Italicus xiv. 232; Plin. iii. 8. s. 14; Vib. Sequest. p. 11.
- ^ Richard Talbert, Barrington Atlas of the Greek and Roman World, (ISBN 0-691-03169-X), Map 47 & notes.
- ^ Tommaso Fazello ix. 2.
- ^ http://www.britannica.com/EBchecked/topic/565868/Stesichorus
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2014年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月13日閲覧。
- ^ http://www.calabria.nu/magna.htm#Like
- ^ https://books.google.com/books?id=xFhMG7G1q5kC&pg=PA254&lpg=PA254&dq=Stesichorus+was+born+in+Metauros&source=bl&ots=RDiNzxAeNk&sig=bhoz-8O94Ns0NdqfrJaJDV5azC0&hl=en&sa=X&ei=I0y1U4XFDoemkQW1_ICYCw&ved=0CC8Q6AEwBA#v=onepage&q=Stesichorus%20was%20born%20in%20Metauros&f=false
- ^ http://www.forgottenbooks.com/readbook_text/A_History_of_Ancient_Greek_Literature_1000014498/125
- ^ Pind. Ol. xii.; Paus. vi. 4. § 11.
- ^ Diod. xix. 2.
参考資料[編集]
この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Smith, William, ed. (1854–1857). Dictionary of Greek and Roman Geography. London: John Murray.
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