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「ブキティンギ」の版間の差分

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これに対して、元産経新聞ジャカルタ支局長の[[加藤裕]]や旧「スマトラ新聞」記者だった菊地秀廣(元北海道新聞論説委員)が調査、地下壕の築造を直接指揮した本庄弘直主計大尉(当時)や台湾人の元軍属にもあって取材した。その結果、後藤や倉沢の紹介した話は事実と異なり、これは要塞ではなく単なる防空壕であり、建設にあたって負傷者すら出ていないことが明らかになったとする。彼らの抗議により防空壕入口にあった日本軍の労務者の連行や虐待を描いたレリーフは1997年に撤去され、加藤の主張によれば、これはインドネシア政府も間違いを認めたものだとする<ref>{{Cite web |url=https://blog.goo.ne.jp/bagus_2006/e/4812a327fa601f6d5cb286837cbe4b3e |title=「日本の穴」スマトラ虐殺虚報の独り歩きの恐ろしさ |access-date=2022-11-26 |author=加藤 裕}}</ref>。さらに、加藤や第二十五軍司令部戦友会有志中心に冊子を3千部を作成、そこでは、本庄の「築城では現地労働者には日当も支払い、ブキティンギ市の労務係に頼んで送り込まれたもの、虐殺はおろか負傷者も出ていない」「複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」との証言をインドネシア語・英語・日本語で紹介、[[2004年]]12月に現地を中心に配布した<ref>{{Cite book|和書|title=スマトラ・ブキティンギ第二十五軍防空壕築造由来概略|year=2004|publisher=(自費出版)|editor=加藤 裕}}</ref><ref group="注釈">後藤や倉田の紹介する話はあくまで伝聞(また聞き)であるが、一方で、本庄からの話も、先の証言では、奥にある炊事場と呼ばれる一室(この部屋については、現地では労務者に対する拷問部屋や処刑場としても使われていたと伝えられる)について、火を焚けば酸欠を起こす、そのため電信隊の内燃機関の持込も断るほどだったとしながら、後の本庄も名を連ねている配布冊子には、そこを発電機(当然、重油か軽油なりを焚くことになる)の置き場としている等の矛盾も見られる<nowiki><ref></nowiki>{{Cite book|和書|title=大東亜戦争とインドネシア―日本の軍政|date=2002-9-19-1|publisher=朱鳥社|page=53,58以降|author=加藤 裕}}<nowiki></ref><ref group="注釈">また、リアウ大学のフェトラ・ユリタ、ベドリアチ・イムランらの研究では、労務一般について、ブキティンギにおいても、労務者について日本等から連れてきた者がいた他、当初は賃金募集を行ったり、市の役所に出してもらっていたものの、過酷な労務実態が知られるに連れて、人が集まらなくなったため、強制的な徴用に変わったことが報告されている。{{Cite web |url=https://media.neliti.com/media/publications/206997-sejarah-lubang-japang-sebagai-tempat-per.pdf |title=HISTORY "LUBANG JAPANG" AS THE PROTECTION OF ALLIED 1942-1945 IN BUKITTINGGI Fetra Yurita *, Bedriati Ibrahim **, Bunar |access-date=2022-12-06 |publisher=neliti}}また、このようなブキティンギで徴用された人々はやはり逃亡防止や機密保持のために、その多くがバンドンやビアク島に連れていかれて働かされたと現地では伝えられている。したがって、ユリタらの説によれば、本庄の話は軍政初期こそ当てはまったとしても、軍政後期には当てはまらなくなっていた可能性が強い。</ref>。

これに対して、元産経新聞ジャカルタ支局長の[[加藤裕]]や旧「スマトラ新聞」記者だった菊地秀廣(元北海道新聞論説委員)が調査、地下壕の築造を直接指揮した本庄弘直主計大尉(当時)や台湾人の元軍属にもあって取材した。その結果、後藤や倉沢の紹介した話は事実と異なり、これは要塞ではなく単なる防空壕であり、建設にあたって負傷者すら出ていないことが明らかになったとする。彼らの抗議により防空壕入口にあった日本軍の労務者の連行や虐待を描いたレリーフは1997年に撤去され、加藤の主張によれば、これはインドネシア政府も間違いを認めたものだとする<ref>{{Cite web |url=https://blog.goo.ne.jp/bagus_2006/e/4812a327fa601f6d5cb286837cbe4b3e |title=「日本の穴」スマトラ虐殺虚報の独り歩きの恐ろしさ |access-date=2022-11-26 |author=加藤 裕}}</ref>。さらに、加藤や第二十五軍司令部戦友会有志中心に冊子を3千部を作成、そこでは、本庄の「築城では現地労働者には日当も支払い、ブキティンギ市の労務係に頼んで送り込まれたもの、虐殺はおろか負傷者も出ていない」「複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」との証言をインドネシア語・英語・日本語で紹介、[[2004年]]12月に現地を中心に配布した<ref>{{Cite book|和書|title=スマトラ・ブキティンギ第二十五軍防空壕築造由来概略|year=2004|publisher=(自費出版)|editor=加藤 裕}}</ref><ref group="注釈">後藤や倉田の紹介する話はあくまで伝聞(また聞き)であるが、一方で、本庄からの話も、先の証言では、奥にある炊事場と呼ばれる一室(この部屋については、現地では労務者に対する拷問部屋や処刑場としても使われていたと伝えられる)について、火を焚けば酸欠を起こす、そのため電信隊の内燃機関の持込も断るほどだったとしながら、後の本庄も名を連ねている配布冊子には、そこを発電機(当然、重油か軽油なりを焚くことになる)の置き場としている等の矛盾も見られる<nowiki><ref></nowiki>{{Cite book|和書|title=大東亜戦争とインドネシア―日本の軍政|date=2002-9-19-1|publisher=朱鳥社|page=53,58以降|author=加藤 裕}}<nowiki></ref><ref group="注釈">また、リアウ大学のフェトラ・ユリタ、ベドリアチ・イムランらの研究では、労務一般について、ブキティンギにおいても、労務者について日本等から連れてきた者がいた他、当初は賃金募集を行ったり、市の役所に出してもらっていたものの、過酷な労務実態が知られるに連れて、人が集まらなくなったため、強制的な徴用に変わったことが報告されている。{{Cite web |url=https://media.neliti.com/media/publications/206997-sejarah-lubang-japang-sebagai-tempat-per.pdf |title=HISTORY "LUBANG JAPANG" AS THE PROTECTION OF ALLIED 1942-1945 IN BUKITTINGGI Fetra Yurita *, Bedriati Ibrahim **, Bunar |access-date=2022-12-06 |publisher=neliti}}また、このようなブキティンギで徴用された人々はやはり逃亡防止や機密保持のために、その多くがバンドンやビアク島に連れていかれて働かされたと現地では伝えられている。したがって、ユリタらの説によれば、本庄の話は軍政初期こそ当てはまったとしても、軍政後期には当てはまらなくなっていた可能性が強い。</ref>。




<ref>{{Cite web |url=https://travel.kompas.com/read/2014/12/03/105100627/Menelusuri.Sejarah.Suram.Lobang.Jepang.di.Bukittinggi.?page=2 |title=Menelusuri Sejarah Suram Lobang Jepang di Bukittinggi |access-date=2022-12-04 |publisher=Kompas.com}}</ref><ref group="">{{|date=202212}}</ref>2001<ref>{{Cite web |url=https://www.pesona.co.id/article/jangan-sampai-tersesat-di-labirin-lobang-jepang-?p=2 |title=Jangan Sampai Tersesat di Labirin Lobang Jepang |access-date=2022-12-05 |publisher=PESONA GCM Group |website=PESONA}}</ref>2018<ref>{{Cite web |url=https://www.nna.jp/news/1736191 |title= - NNA ASIA |access-date=2022-11-26 |publisher=NNA |website=NNA }}</ref>

<ref>{{Cite web |url=https://travel.kompas.com/read/2014/12/03/105100627/Menelusuri.Sejarah.Suram.Lobang.Jepang.di.Bukittinggi.?page=2 |title=Menelusuri Sejarah Suram Lobang Jepang di Bukittinggi |access-date=2022-12-04 |publisher=Kompas.com}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.liputan6.com/lifestyle/read/2446115/merasai-kengerian-lubang-jepang-di-bukittinggi |title=Merasai Kengerian Lubang Jepang di Bukittinggi |access-date=2022-12-10 |publisher=Liputan6.com |website=Liputan6}}</ref><ref group="">{{URL|https://padang.go.id/lubang-jepang}})</ref>2001<ref>{{Cite web |url=https://www.pesona.co.id/article/jangan-sampai-tersesat-di-labirin-lobang-jepang-?p=2 |title=Jangan Sampai Tersesat di Labirin Lobang Jepang |access-date=2022-12-05 |publisher=PESONA GCM Group |website=PESONA}}</ref>2018<ref>{{Cite web |url=https://www.nna.jp/news/1736191 |title= - NNA ASIA |access-date=2022-11-26 |publisher=NNA |website=NNA }}</ref>



[[2002]]1997[[|ODA]][[]]3,86120038,396[[]][[|JBIC]][[|JICA]]2004

[[2002]]1997[[|ODA]][[]]3,86120038,396[[]][[|JBIC]][[|JICA]]2004

2022年12月10日 (土) 02:53時点における版

ブキティンギ


Fort De Kock
City
Bukittinggi
Other翻字
 • ジャウィ文字 بوکيت تيڠݢي
時計塔と中央広場

時計塔と中央広場

ブキティンギの公式印章
印章
標語: 
Saayun Salangkah
(ミナンカバウ語:「一緒に同じ歩幅で」
Location of ブキティンギ
ブキティンギの位置(スマトラ島内)
ブキティンギ

ブキティンギ

ブキティンギの位置

ブキティンギの位置(インドネシア内)
ブキティンギ

ブキティンギ

ブキティンギ (インドネシア)

ブキティンギの位置(南スマトラ州内)
ブキティンギ

ブキティンギ

ブキティンギ (南スマトラ州)

南緯0度18分20秒 東経100度22分9秒 / 南緯0.30556度 東経100.36917度 / -0.30556; 100.36917座標: 南緯0度18分20秒 東経100度22分9秒 / 南緯0.30556度 東経100.36917度 / -0.30556; 100.36917
インドネシア
西スマトラ州
政府

 • 市長

ムハンマド・ラムラン・ヌルマティアス(2016-2021)

[1][2]
面積

 • 合計 25.24 km2
標高

930 m
人口

(2014)

 • 合計 117,097人
 • 密度 4,600人/km2
等時帯 UTC+7 (WIB)
市外局番 +62 752
気候 Af
ウェブサイト www.bukittinggikota.go.id
ブキティンギの街並(アフマッド・ヤニ通り)

 Kota Bukittinggi西

Fort de Kock


西西290km

900m20

西


191825Fort de Kock

194225

19481213

19501958215西Pemerintah Revolusioner Republik Indonesia


30c[3]

195619501986[4]

3[5]19872919981999

調()1997[6]3200412[7][ 1][ 2]

[8][9][ 3]2001[10]2018[11]

20021997ODA3,86120038,396JBICJICA2004



 (Jam Gadang)

Fort de Kock

Ngarai Sianok



Jam Gadang- 

Kota Gadang- 


()

注釈



(一)^ 使<ref> 2002-9-19-153,58 <nowiki>

(二)^ HISTORY "LUBANG JAPANG" AS THE PROTECTION OF ALLIED 1942-1945 IN BUKITTINGGI Fetra Yurita *, Bedriati Ibrahim **, Bunar.  neliti. 2022126

(三)^ padang.go.id/lubang-jepang)

出典



(一)^ KPU Bukittinggi Tetapkan Walikota dan Wakil Walikota Bukittinggi Terpilih periode 2016-2021 (Indonesian) (20151222). 20161312016418

(二)^ Selamat Atas Pelantikan Walikota Dan Wakil Walikota Bukittinggi (Indonesian) (2016). 20163102016418

(三)^ . (19861213) 

(四)^  1994111169-170 

(五)^   1990 

(六)^  . . 20221126

(七)^   2004 

(八)^ Menelusuri Sejarah Suram Lobang Jepang di Bukittinggi.  Kompas.com. 2022124

(九)^ Merasai Kengerian Lubang Jepang di Bukittinggi. Liputan6.  Liputan6.com. 20221210

(十)^ Jangan Sampai Tersesat di Labirin Lobang Jepang. PESONA.  PESONA GCM Group. 2022125

(11)^  - NNA ASIA. NNA .  NNA. 20221126






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