「プログラマ」を編集中
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1940年代に入り、初期コンピュータが登場しはじめると、人手では時間がかかり過ぎる科学的計算に使用された。その際、計算内容の変更に伴い回路変更が必要であったが、その作業は急速に増大していく。この頃は、プログラマと[[ハードウェア]]設計者との区別は難しく、どこからがプログラマでどこからが回路設計者かは議論あるいは解釈の余地があるが、回路変更作業の増大と高度複雑化に伴い、徐々にプログラマと呼べる存在が確立していった。仮に、回路設計の変更をもってプログラミングとするならば、設計図を変更し、半田ごてを持ったり、ケーブルの差し替えを行う事が初期プログラマの仕事となる。あるいは、回路設計業務から離れ、スイッチのオンオフをもってプログラムと考えることも可能ではあるが、それらをハード設計の仕事とみなせば、プログラマの登場とは回路変更を行わずにコンピュータの処理内容変更が可能となり、入出力装置が発展してからである。
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1940年代に入り、初期コンピュータが登場しはじめると、人手では時間がかかり過ぎる科学的計算に使用された。その際、計算内容の変更に伴い回路変更が必要であったが、その作業は急速に増大していく。この頃は、プログラマと[[ハードウェア]]設計者との区別は難しく、どこからがプログラマでどこからが回路設計者かは議論あるいは解釈の余地があるが、回路変更作業の増大と高度複雑化に伴い、徐々にプログラマと呼べる存在が確立していった。仮に、回路設計の変更をもってプログラミングとするならば、設計図を変更し、半田ごてを持ったり、ケーブルの差し替えを行う事が初期プログラマの仕事となる。あるいは、回路設計業務から離れ、スイッチのオンオフをもってプログラムと考えることも可能ではあるが、それらをハード設計の仕事とみなせば、プログラマの登場とは回路変更を行わずにコンピュータの処理内容変更が可能となり、入出力装置が発展してからである。
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1944年に[[ハワード・エイケン]]によってコンピュータ用穿孔機(せんこうき)と読み取り機が発明されると、紙によるプログラムの提供が可能となる。1945年に[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]によりプログラム内蔵したコンピュータが発明されると、目的別に回路変更を行う煩雑さから解放されていくようになり、これら以降、ハードウェアとソフトウェアがそれぞれ分立していくようになる。ただし、この頃のプログラマは、ハード設計者と同一である事も多く、また職業としては数学者と記載される事が多い。この頃のプログラマとして前記エイケンの元(ハーバード大学エイケン計算研究所)にいた、[[グレース・ホッパー|グレース・マレー・ホッパー]]がいる。ハード設計者ではない者として、[[ENIAC]]のプログラミング担当者は[[弾道研究所]]で雇用されていた[[計算手]]から選ばれたが、 |
1944年に[[ハワード・エイケン]]によってコンピュータ用穿孔機(せんこうき)と読み取り機が発明されると、紙によるプログラムの提供が可能となる。1945年に[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]によりプログラム内蔵したコンピュータが発明されると、目的別に回路変更を行う煩雑さから解放されていくようになり、これら以降、ハードウェアとソフトウェアがそれぞれ分立していくようになる。ただし、この頃のプログラマは、ハード設計者と同一である事も多く、また職業としては数学者と記載される事が多い。この頃のプログラマとして前記エイケンの元(ハーバード大学エイケン計算研究所)にいた、[[グレース・ホッパー|グレース・マレー・ホッパー]]がいる。ハード設計者ではない者として、[[ENIAC]]のプログラミング担当者は[[弾道研究所]]で雇用されていた[[計算手]]から選ばれたが、全員が大学で数学を専攻した数学者で回路設計者とは無縁であり、肩書きも「計算手(computer)」であった。 |
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=== 1950年代 === |
=== 1950年代 === |