ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)
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第5代ランズダウン侯爵 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス Henry Petty-Fitzmaurice, 5th Marquess of Lansdowne | |
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![]() ランズダウン侯爵 | |
生年月日 | 1845年1月14日 |
出生地 |
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没年月日 | 1927年6月3日 (満82歳没) |
死没地 |
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出身校 | オックスフォード大学ベリオール・カレッジ |
所属政党 | 自由党→自由統一党→保守党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) インドの星勲章勲爵士 (GCSI) 聖マイケル・聖ジョージ勲章勲爵士 (GCMG) インド帝国勲章勲爵士 (GCIE) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | モード・ハミルトン |
親族 |
初代ランズダウン侯爵 (曽祖父) 第3代ランズダウン侯爵 (祖父) 初代アバコーン公爵 (義父) 初代フィッツモーリス男爵 (弟) 第9代デヴォンシャー公爵 (娘婿) |
在任期間 | 1883年10月23日 - 1888年6月11日 |
国王 | ヴィクトリア |
在任期間 | 1888年12月10日 - 1894年10月11日 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第3次ソールズベリー内閣 |
在任期間 | 1895年7月4日 - 1900年11月12日 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 |
第3次ソールズベリー内閣 バルフォア内閣 |
在任期間 | 1900年11月12日 - 1905年12月4日 |
国王 | ヴィクトリア・エドワード7世 |
内閣 | 第2次アスキス内閣 |
在任期間 | 1915年5月25日 - 1916年 |
国王 | ジョージ5世 |
第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス︵英: Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne、1845年1月14日 - 1927年6月3日︶は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー勲爵士、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー勲爵士、枢密顧問官。
出生から父親が、第4代ランズダウン侯爵となる1863年までは﹁クランモーリス子爵﹂︵Viscount Clanmaurice︶の、1863年から自身が襲爵する1866年までは﹁ケリー伯爵﹂︵Earl of Kerry︶の儀礼称号で称された。
経歴
第4代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと後妻のエミリー・ペティ=フィッツモーリス︵旧姓de Flahault︶の間の長男[1][2]。曽祖父に首相や内相︵Home Secretary︶を務めた初代ランズダウン侯爵ウィリアム・ペティ=フィッツモーリス︵首相在職時の爵位は﹁第2代シェルバーン伯﹂︶、祖父に財務相や内相・枢密院議長︵Lord President of the Council︶を歴任した第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスがいる。 イートン・カレッジを経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジ卒業[1][2]。 1866年、父の死により21歳で連合王国貴族の爵位﹁ランズダウン侯爵﹂・アイルランド貴族の爵位﹁ケリー伯爵﹂と莫大な遺産を相続した。なお後に母親からもスコットランド貴族の爵位﹁ネアーン卿﹂︵Lord Nairne︶を相続している。 貴族院議員となったランズダウンは自由党に所属し、首相ウィリアム・グラッドストンの下で1868年から1872年まで大蔵卿委員︵Lord of the Treasury︶[3]を、1872年から1874年まで戦争省政務次官︵Parliamentary Under-Secretary of State for War︶[1][2]を務めた。1880年にインド省政務次官︵Parliamentary Under-Secretary of State for India︶[1][2]に任じられるが、アイルランド自治に関するグラッドストンの方針に反対して辞職[2]、後に自由党からも離党した。 1883年から1888年までカナダの総督[4]を、1888年から1894年までインドの総督[5]を務めた。 帰国後は自由統一党︵Liberal Unionist Party; リベラル・ユニオニスト︶に所属。1895年、第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党との連立政権︵第3次ソールズベリー内閣︶において戦争大臣︵Secretary of State for War︶[6]として入閣した。在任中の1899年に第二次ボーア戦争が勃発すると、戦争準備が不十分であったことを批判された[2]。1900年に外務大臣へ転任[1][2]、続くバルフォア内閣でも外相に留任した。1902年1月30日、ロンドンにてイギリス駐箚日本公使林董男爵︵6年後には伯爵︶との間で日英同盟を調印。また1903年5月15日にはペルシア湾におけるイギリスの優越権を宣言してロシア帝国の南下政策を牽制し、1904年4月8日にはフランスの外相テオフィル・デルカッセとの間で英仏協商を締結した。 1906年の総選挙において自由党が圧勝すると、貴族院で自由党の政策に抵抗するという保守党党首アーサー・バルフォアの計画に協力した。1909年に貴族院は予算案に介入しないという慣例を破って﹁人民予算﹂︵People's Budget︶を否決したが、これを受けて首相ハーバート・ヘンリー・アスキスは庶民院を解散。1910年1月の総選挙はハング・パーラメントとなったものの自由党はアイルランド議会党︵Irish Parliamentary Party︶と連立して予算案を通過させ、さらに同年12月の総選挙の後に貴族院の権限を縮小する1911年議会法を成立させた。この結果、イギリスにおける庶民院の優越が確定することとなった。 第一次世界大戦中の1915年、ガリポリの戦いを受けてアスキスは挙国一致内閣︵第2次アスキス内閣︶を組織した。ランズダウンも無任所大臣として入閣し、首相がデビッド・ロイド・ジョージに代わる1916年まで務めた[1][2]。戦争の被害に衝撃を受けた彼は閣議でドイツ帝国との和平交渉を提案し、1917年にこのメモ︵Lansdowne Letter︶を公表したが、内閣の方針に反する行為だとして非難された。 彼は1884年に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス[7]を、1888年にインド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー[1]およびインドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー[1]を、1895年にガーター勲章[8]を、1905年にロイヤル・ヴィクトリア剄飾[9]を授けられ、1895年には枢密顧問官に列せられた[6]。 1927年6月3日、心臓発作のため死去。82歳。爵位は長男のケリー伯爵ヘンリーが相続した。遺産は土地が 1,044,613 UKポンド、他の資産が 233,888 UKポンドであった。家族
ランズダウンは、初代アバコーン公爵ジェイムズ・ハミルトンの娘であるレディ・モード・ハミルトンと1869年11月8日にウェストミンスター寺院で結婚した[1]。夫妻の間には以下の二男二女が生まれた。- レディ・イヴリン・エミリー・メアリー (1870年8月27日 – 1960年4月2日) - 第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャヴェンディッシュ夫人
- ケリー伯爵ヘンリー・ウィリアム・エドマンド (1872年1月14日 – 1936年3月5日) - 第6代ランズダウン侯爵
- チャールズ・ジョージ・フランシス卿 (1874年2月12日 – 1914年10月30日)
- レディ・ベアトリクス・フランシス (1877年3月25日 – 1953年8月5日) - 初め第6代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ベレスフォード夫人、次いで第12代セント・オールバンズ公爵オズボーン・ボークラーク夫人
出典
(一)^ abcdefghiLundy, Darryl. “Sir Henry Charles Keith Petty-FitzMaurice, 5th Marquess of Lansdowne” (英語). thepeerage.com. 2010年11月28日閲覧。
(二)^ abcdefghWaite, P. B.. “PETTY-FITZMAURICE, HENRY CHARLES KEITH, 5th Marquess of LANSDOWNE” (英語). Dictionary of Canadian Biography Online. トロント大学 & ラヴァル大学. 2010年11月28日閲覧。
(三)^ "No. 23451". The London Gazette (英語). 18 December 1868. 2010年11月28日閲覧。
(四)^ "No. 25264". The London Gazette (英語). 28 August 1883. 2010年11月28日閲覧。
(五)^ "No. 25871". The London Gazette (英語). 2 November 1888. 2010年11月28日閲覧。
(六)^ ab"No. 26640". The London Gazette (英語). 5 July 1895. 2010年11月28日閲覧。
(七)^ "No. 25313". The London Gazette (英語). 29 January 1884. 2010年11月28日閲覧。
(八)^ "No. 26606". The London Gazette (英語). 12 March 1895. 2010年11月28日閲覧。
(九)^ "No. 27866". The London Gazette (英語). 22 December 1905. 2010年11月28日閲覧。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Henry Petty-FitzMaurice
- “Former Governors General” (英語). The Governor General of Canada. 2010年11月28日閲覧。
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