「マルゲリータ・ダウストリア (パルマ公妃)」の版間の差分
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2017年9月25日 (月) 14:35時点における版
マルゲリータ・ダウストリア︵Margherita d'Austria︶またはマルゲリータ・ダズブルゴ︵Margherita d'Asburgo, 1522年12月28日 - 1586年1月18日︶は、パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼの妃。神聖ローマ皇帝カール5世の庶子で、母はフランデレン人のヨハンナ・マリア・ファン・デル・ヘインスト︵Johanna Maria van der Gheynst︶。スペイン語名はマルガリータ・デ・アウストリア︵Margarita de Austria︶。
父方の大叔母マルグリット、のち叔母マリアの下、ネーデルラントで育つ。1536年、フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチと結婚するが、1年後に夫が暗殺される。1538年、オッターヴィオ・ファルネーゼと再婚、双子の男児を生むが、育ったのはアレッサンドロのみだった。
1559年、異母弟のスペイン王フェリペ2世の要請によりネーデルラント17州の総督となり、反動的属領政策に協力した。しかし、カルヴァン派を信仰する現地のブルジョアジーであるゴイセン同盟の進出、大衆蜂起など反抗が激化、これらを抑えられずにアルバ公と交代させられた。
1567年以後、イタリアに隠遁した。
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