「ルネ・クルヴェル」を編集中
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翌1934年には[[1934年2月6日の危機]]を受けて3月5日に[[反ファシズム知識人監視委員会]]が結成された。これにはクルヴェル、ブルトン、ペレらが名を連ねているが、この頃にはシュルレアリストと共産党員との決裂が決定的なものとなり、シュルレアリストはもはや共産党主導の運動に積極的に関わっていない。契機となったのは、1931年に『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に掲載されたダリの絵《夢想》が『リュマニテ』紙で[[ポルノグラフィ|ポルノ]]的であると批判されたこと、さらに、1933年の同紙上で[[哲学者]][[フェルディナン・アルキエ]]が共産主義を「[[ソビエト連邦|ソ連]]から吹いてくる組織的な低能化の風」と批判したことであった。この結果、同年、アルキエを支持したブルトンとエリュアールが革命作家芸術家協会から除名され、次いで共産党からも除名されることになった<ref name=":2" />。クルヴェルはブルトンを支持して共産党を離党したが、数か月後には再び入党し、党の活動、特に革命作家芸術家協会の活動、反ファシズムの運動、[[レフ・トロツキー]]のフランスからの追放に反対する運動、1933年3月3日に逮捕された[[ドイツ共産党]]の[[エルンスト・テールマン]]およびドイツの反ファシストの釈放を求める運動、ドイツからの[[亡命]]者を支援する活動などに参加した<ref name=":1" />。 |
翌1934年には[[1934年2月6日の危機]]を受けて3月5日に[[反ファシズム知識人監視委員会]]が結成された。これにはクルヴェル、ブルトン、ペレらが名を連ねているが、この頃にはシュルレアリストと共産党員との決裂が決定的なものとなり、シュルレアリストはもはや共産党主導の運動に積極的に関わっていない。契機となったのは、1931年に『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に掲載されたダリの絵《夢想》が『リュマニテ』紙で[[ポルノグラフィ|ポルノ]]的であると批判されたこと、さらに、1933年の同紙上で[[哲学者]][[フェルディナン・アルキエ]]が共産主義を「[[ソビエト連邦|ソ連]]から吹いてくる組織的な低能化の風」と批判したことであった。この結果、同年、アルキエを支持したブルトンとエリュアールが革命作家芸術家協会から除名され、次いで共産党からも除名されることになった<ref name=":2" />。クルヴェルはブルトンを支持して共産党を離党したが、数か月後には再び入党し、党の活動、特に革命作家芸術家協会の活動、反ファシズムの運動、[[レフ・トロツキー]]のフランスからの追放に反対する運動、1933年3月3日に逮捕された[[ドイツ共産党]]の[[エルンスト・テールマン]]およびドイツの反ファシストの釈放を求める運動、ドイツからの[[亡命]]者を支援する活動などに参加した<ref name=":1" />。 |
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[[ファイル:René Crevel, Nouvelles littéraires, 3 juin 1933.jpg|左|サムネイル|199x199ピクセル|ルネ・クルヴェル、1933年]] |
[[ファイル:René Crevel, Nouvelles littéraires, 3 juin 1933.jpg|左|サムネイル|199x199ピクセル|ルネ・クルヴェル、1933年]] |
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また、1933年にアラゴンが編集事務局を務めていた革命作家芸術家協会の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}』など共産党の機関誌や共産党系の雑誌に寄稿し、アラゴンが事務局長を務める文化会館(革命作家芸術家協会以外の人民戦線の様々な文化団体が参加)でソ連の未公開の[[映画]]を紹介したり、革命作家芸術家協会の写真部門が主催した会議で「糾弾する写真」と題する講演を行ったりした。文化会館の主催でドイツの反ナチズムの写真家[[ジョン・ハートフィールド]]の展覧会が行われたときには絵画に関する講演を行い、この原稿も『コミューン』誌に掲載された<ref name=":1" />。とはいえ、クルヴェルはアラゴンのように[[社会主義リアリズム]]に傾倒することはなかった。アラゴンは1930年に[[ハルキウ]](ハリコフ)で開催された国際革命作家同盟の大会(ハリコフ会議)にシュルレアリストを代表して参加したことを機に左傾化しシュルレアリストらから批判され(アラゴン事件)、運動を離れて共産党員として活動していたが<ref>{{Cite web|title=ARAGON Louis|url=https://maitron.fr/spip.php?article10173|website=maitron.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|language=fr|date=2019-11-25}}</ref>、最後までシュルレアリストと共産主義者の連帯を願っていたクルヴェルは、それだけに一層苦しい状況に追い込まれた<ref name=":1" />。 |
また、1933年にアラゴンが編集事務局を務めていた革命作家芸術家協会の機関誌『{{仮リンク|コミューン (雑誌)|fr|Commune (revue)|label=コミューン}}』など共産党の機関誌や共産党系の雑誌に寄稿し、アラゴンが事務局長を務める文化会館(革命作家芸術家協会以外の人民戦線の様々な文化団体が参加)でソ連の未公開の[[映画]]を紹介したり、革命作家芸術家協会の写真部門が主催した会議で「糾弾する写真」と題する講演を行ったりした。文化会館の主催でドイツの反ナチズムの写真家[[ジョン・ハートフィールド]]の展覧会が行われたときには絵画に関する講演を行い、この原稿も『コミューン』誌に掲載された<ref name=":1" />。とはいえ、クルヴェルはアラゴンのように[[社会主義リアリズム]]に傾倒することはなかった。アラゴンは1930年に[[ハルキウ|ハルキウ]](ハリコフ)で開催された国際革命作家同盟の大会(ハリコフ会議)にシュルレアリストを代表して参加したことを機に左傾化しシュルレアリストらから批判され(アラゴン事件)、運動を離れて共産党員として活動していたが<ref>{{Cite web|title=ARAGON Louis|url=https://maitron.fr/spip.php?article10173|website=maitron.fr|accessdate=2020-03-22|publisher=Maitron|author=Nicole Racine|language=fr|date=2019-11-25}}</ref>、最後までシュルレアリストと共産主義者の連帯を願っていたクルヴェルは、それだけに一層苦しい状況に追い込まれた<ref name=":1" />。 |
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=== 葛藤 === |
=== 葛藤 === |