「ロバート・グロウ」を編集中
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'''ロバート・ウォーカー・グロウ'''(Robert Walker Grow、[[1895年]][[2月14日]] - [[1985年]][[11月3日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]。[[第二次世界大戦]]中、[[アメリカ陸軍]]{{仮リンク|第6機甲師団 (アメリカ軍)|label=第6機甲師団|en|U.S. 6th Armored Division}}長などを務めた。[[冷戦]]中、機密漏洩の罪により[[軍法会議]]で裁かれた。最終階級は[[少将]]。 |
'''ロバート・ウォーカー・グロウ'''(Robert Walker Grow、[[1895年]][[2月14日]] - [[1985年]][[11月3日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[軍人]]。[[第二次世界大戦]]中、[[アメリカ陸軍]]{{仮リンク|第6機甲師団 (アメリカ軍)|label=第6機甲師団|en|U.S. 6th Armored Division}}長などを務めた。[[冷戦]]中、機密漏洩の罪により[[軍法会議]]で裁かれた。最終階級は[[少将]]。 |
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==経歴== |
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アイオワ州シブリーにて、母ネリー(Nellie、[[旧姓]]はWalker)と父ジョン・トーマス・グロウ(John Thomas Grow)の元に生を受ける。しかし彼が2歳の頃に母が死去し、父が[[カナダ]]へ出稼ぎに出るようになると、以後は父方の祖父母の元で暮らした。1915年、{{仮リンク|ミネソタ州兵|en|Minnesota National Guard}}に少尉として配属される<ref name="TFLS">{{Cite web |author= |date= 1985-05-04 |url= https://news.google.com/newspapers?id=JeJNAAAAIBAJ&sjid=QosDAAAAIBAJ&pg=6403%2C647761 |title= Importance of armored force recalled by patton favorite |work= |publisher= [[:en:The Free Lance–Star|The Free Lance-Star]] |accessdate=2015-06-08}}</ref>。1916年、[[ミネソタ大学ツインシティー校|ミネソタ大学]]を卒業<ref>Hofmann. - p.10.</ref>。同年6月、所属を州兵から連邦軍へ移し、その後は[[アメリカ=メキシコ国境|米墨国境]]の警備任務に従事したほか、[[第一次世界大戦]]にも従軍した<ref name="TFLS"/>。 |
アイオワ州シブリーにて、母ネリー(Nellie、[[旧姓]]はWalker)と父ジョン・トーマス・グロウ(John Thomas Grow)の元に生を受ける。しかし彼が2歳の頃に母が死去し、父が[[カナダ]]へ出稼ぎに出るようになると、以後は父方の祖父母の元で暮らした。1915年、{{仮リンク|ミネソタ州兵|en|Minnesota National Guard}}に少尉として配属される<ref name="TFLS">{{Cite web |author= |date= 1985-05-04 |url= https://news.google.com/newspapers?id=JeJNAAAAIBAJ&sjid=QosDAAAAIBAJ&pg=6403%2C647761 |title= Importance of armored force recalled by patton favorite |work= |publisher= [[:en:The Free Lance–Star|The Free Lance-Star]] |accessdate=2015-06-08}}</ref>。1916年、[[ミネソタ大学ツインシティー校|ミネソタ大学]]を卒業<ref>Hofmann. - p.10.</ref>。同年6月、所属を州兵から連邦軍へ移し、その後は[[アメリカ=メキシコ国境|米墨国境]]の警備任務に従事したほか、[[第一次世界大戦]]にも従軍した<ref name="TFLS"/>。 |
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1930年代のロバート・グロウは、[[ダグラス・マッカーサー]]らと同様、陸軍における自動車化・機械化の推進を主張する騎兵将校の1人だった<ref name="TFLS"/>。 |
1930年代のロバート・グロウは、[[ダグラス・マッカーサー]]らと同様、陸軍における自動車化・機械化の推進を主張する騎兵将校の1人だった<ref name="TFLS"/>。 |
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===第二次世界大戦=== |
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[[File:Robert W. Grow.jpg|thumb|戦場に立つロバート・グロウ]] |
[[File:Robert W. Grow.jpg|thumb|戦場に立つロバート・グロウ]] |
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[[第二次世界大戦]]勃発後、アメリカが参戦するまでは{{仮リンク|第2機甲師団 (アメリカ軍)|label=第2機甲師団|en|2nd Armored Division (United States)}}にて師団長[[ジョージ・パットン]]少将の幕僚を務めていた<ref name="TFLS"/>。派手好きで芝居がかった方法を好むパットンと几帳面でビジネスライクに仕事を進めるグロウの性格は正反対だったが、「機甲戦力による積極的な攻撃が勝利に繋がる」という信念の面では一致していた。パットンはグロウを指して、「戦争が生み出した、最高の機甲部隊指揮官の1人」(one of the best armored-force commanders the war produced)と評していたという。 |
[[第二次世界大戦]]勃発後、アメリカが参戦するまでは{{仮リンク|第2機甲師団 (アメリカ軍)|label=第2機甲師団|en|2nd Armored Division (United States)}}にて師団長[[ジョージ・パットン]]少将の幕僚を務めていた<ref name="TFLS"/>。派手好きで芝居がかった方法を好むパットンと几帳面でビジネスライクに仕事を進めるグロウの性格は正反対だったが、「機甲戦力による積極的な攻撃が勝利に繋がる」という信念の面では一致していた。パットンはグロウを指して、「戦争が生み出した、最高の機甲部隊指揮官の1人」(one of the best armored-force commanders the war produced)と評していたという。 |
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彼の率いる第6機甲師団は[[コタンタン半島]]から[[ブルターニュ半島]]を瞬く間に縦断した。第6機甲師団の1日あたりの平均進撃距離はおよそ25マイルにもおよんだという。グロウはこれを誇り、作戦会議の折に戦術地図を指して﹁この地図は小さすぎる。今日中に走りきれないようなもっと大きな地図を﹂︵"These maps are too small. Give me a map large enough so that I won't run off it today."︶と語っていたという。まもなくして第6機甲師団は地図の横断を達成し、より大きい地図の調達も実際に行われた。同時に行われていた[[第7軍 (ドイツ軍)|ドイツ第7軍]]に対する他の攻勢に埋もれがちではるが、第6機甲師団の快進撃は戦車を用いた機動戦︵いわゆる[[電撃戦]]︶のアメリカ軍における好例と考えられている。
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彼の率いる第6機甲師団は[[コタンタン半島]]から[[ブルターニュ半島]]を瞬く間に縦断した。第6機甲師団の1日あたりの平均進撃距離はおよそ25マイルにもおよんだという。グロウはこれを誇り、作戦会議の折に戦術地図を指して﹁この地図は小さすぎる。今日中に走りきれないようなもっと大きな地図を﹂︵"These maps are too small. Give me a map large enough so that I won't run off it today."︶と語っていたという。まもなくして第6機甲師団は地図の横断を達成し、より大きい地図の調達も実際に行われた。同時に行われていた[[第7軍 (ドイツ軍)|ドイツ第7軍]]に対する他の攻勢に埋もれがちではるが、第6機甲師団の快進撃は戦車を用いた機動戦︵いわゆる[[電撃戦]]︶のアメリカ軍における好例と考えられている。
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===戦後=== |
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1945年、終戦に伴い第6機甲師団が不活性化されるとグロウは第3機甲師団長に就任し、以後はアメリカ本土および西ヨーロッパにて部隊長や基地司令として勤務した。しかし[[冷戦]]只中、彼の名は不名誉な形で再び注目されることになる。彼は機密情報を漏洩したとして、軍法会議への出席を命ぜられたのである<ref>{{citation |author=Hofmann, George F. |year=1993 |url= http://www.amazon.fr/dp/0873384628 |title=Cold War Casualty: The Court-Martial of Major General Robert W. Grow |isbn=0-87338-462-8 }}</ref>。
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1945年、終戦に伴い第6機甲師団が不活性化されるとグロウは第3機甲師団長に就任し、以後はアメリカ本土および西ヨーロッパにて部隊長や基地司令として勤務した。しかし[[冷戦]]只中、彼の名は不名誉な形で再び注目されることになる。彼は機密情報を漏洩したとして、軍法会議への出席を命ぜられたのである<ref>{{citation |author=Hofmann, George F. |year=1993 |url= http://www.amazon.fr/dp/0873384628 |title=Cold War Casualty: The Court-Martial of Major General Robert W. Grow |isbn=0-87338-462-8 }}</ref>。
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1950年より[[モスクワ]]の在[[ソビエト連邦|ソ連邦]]アメリカ大使館の上級駐在武官として勤務していたグロウは、1952年に[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国]]︵西ドイツ︶・[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]での会議に出席した。彼はドイツ側が管理するアメリカ軍人向けの宿舎に滞在しており、ここに[[ドイツ民主共和国]]︵東ドイツ︶の諜報員が侵入し、内容に機密を含む彼の日記の一部を盗み出した。この事件はソ連邦に亡命した元英陸軍将校リチャード・スクワイアーズ |
1950年より[[モスクワ]]の在[[ソビエト連邦|ソ連邦]]アメリカ大使館の上級駐在武官として勤務していたグロウは、1952年に[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国]]︵西ドイツ︶・[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]での会議に出席した。彼はドイツ側が管理するアメリカ軍人向けの宿舎に滞在しており、ここに[[ドイツ民主共和国]]︵東ドイツ︶の諜報員が侵入し、内容に機密を含む彼の日記の一部を盗み出した。この事件はソ連邦に亡命した元英陸軍将校リチャード・スクワイアーズ(Richard Squires)の著書﹃On the War Path﹄の中で暴露された。スクワイアーズは著書の中でグロウの日記のコピーを掲載し、アメリカがソ連邦との戦争を計画している証拠の1つであると主張した。米陸軍上層部ではすぐに日記の出処を調べ、グロウによって書かれたものであると判明すると彼に退職と軍法会議の二択を迫った。こうして始まったグロウの軍法会議では、個人的な日記における機密の扱いが焦点となった。弁護側は多くの著名な将軍達もグロウと同様に個人的な日記に機密に関する情報を記していた事を指摘している。グロウも日記が軍事文書ではなく個人的な手紙と同様に扱われるべきだと主張したが、彼自身の﹁ドイツに居る頃、私のセキュリティはずさんだった﹂("in Germany when my security was lax,")という発言により有罪が確定した。軍法会議では職務怠慢と2件の情報漏洩について有罪の判決を下し、懲戒(reprimand)および6ヶ月の指揮官停職(suspension from command)を命じた。1953年、軍法会議の直後にグロウは退職し、[[バージニア州]]{{仮リンク|フォールズ・チャーチ (バージニア州)|label=フォールズ・チャーチ|en|Falls Church, Virginia}}にて[[商工会議所]]の役員に就任した。
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1953年、彼の家で火事が起こる。当時、陸軍士官学校生徒だった息子ウォルター・トーマス・"トミー"・グロウ(Walter Thomas "Tommy" Grow)が夏季休暇で泊まりに来ており、火の手は彼の寝室から上がったという。1953年8月12日、ウォルターは煙を吸い過ぎたために死亡した<ref>{{citation |title=GENERAL'S SON DIES IN FIRE AT HIS HOME; W. T. Grow Was a West Pointer -- Father Was Court-Martialed for Slack Care of Diary |newspaper=[[The New York Times]] |date=August 14, 1953 |page=8 }}</ref><ref>{{Find A Grave|90409513|Walter Thomas "Tommy" Grow}}</ref>。 |
1953年、彼の家で火事が起こる。当時、陸軍士官学校生徒だった息子ウォルター・トーマス・"トミー"・グロウ(Walter Thomas "Tommy" Grow)が夏季休暇で泊まりに来ており、火の手は彼の寝室から上がったという。1953年8月12日、ウォルターは煙を吸い過ぎたために死亡した<ref>{{citation |title=GENERAL'S SON DIES IN FIRE AT HIS HOME; W. T. Grow Was a West Pointer -- Father Was Court-Martialed for Slack Care of Diary |newspaper=[[The New York Times]] |date=August 14, 1953 |page=8 }}</ref><ref>{{Find A Grave|90409513|Walter Thomas "Tommy" Grow}}</ref>。 |
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フランス戦線で彼の副官を務めた{{仮リンク|ジョン・ジェームズ・フリント|en|John James Flynt, Jr.}}は、後に[[ジョージア州]]選出の[[アメリカ合衆国下院|下院議員]]となった<ref>{{Cite web |author= |date=2007-06-26 |url= http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/24/AR2007062401335.html |title=Democrat John 'Jack' Flynt Jr.; Served 12 Terms in U.S. House |work= |publisher= [[ワシントン・ポスト|The Washington Post]] |accessdate=2015-06-08}}</ref>。 |
フランス戦線で彼の副官を務めた{{仮リンク|ジョン・ジェームズ・フリント|en|John James Flynt, Jr.}}は、後に[[ジョージア州]]選出の[[アメリカ合衆国下院|下院議員]]となった<ref>{{Cite web |author= |date=2007-06-26 |url= http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/24/AR2007062401335.html |title=Democrat John 'Jack' Flynt Jr.; Served 12 Terms in U.S. House |work= |publisher= [[ワシントン・ポスト|The Washington Post]] |accessdate=2015-06-08}}</ref>。 |
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==脚注== |
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ヨーロッパ派遣前の1943年10月からグロウが師団を離れる1945年5月まで副官を務めたサイラス・R・ショッキー(Cyrus R. Shockey)によれば、グロウはパットンとよく似たスタイルで師団の指揮を執っていたという。すなわち、戦闘中には本部に留まることを好まず、必ず前線を訪れ、戦況の把握に努めたのである。また、グロウは各部隊指揮官と直接に連絡を取り合っており、指揮官らは正式な作戦命令の下達を待たずに行動の計画および準備を行う時間を最大限確保することができた<ref name="Shockey">{{Cite web |author= Cyrus R. Shockey |date= |url= http://www.super6th.org/personal/schockey.htm |title= Memories of General Grow and General Patton |website= |publisher= Super Sixth: The 6th Armored Division in WW II |accessdate=2020-11-22}}</ref>。 |
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グロウは機甲部隊を歩兵将校の指揮下に収めることを好まなかった。それまでの経験から、歩兵将校は機甲部隊の量、火力、機動力を十分活用せず、戦力の逐次投入を図ることがあまりにも多いと考えていたためである。グロウの見解において、歩兵指揮官らは部隊側面の露出を過度に恐れ、保守的な作戦を立案しがちであるとされた<ref name="Shockey"/>。
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グロウは几帳面に日記を付けていたほか、妻への手紙も欠かさなかった。彼の日記は後に師団史を編纂する際に重宝されたものの、その習慣は軍歴の大きな傷となった機密情報漏洩の原因ともなった<ref name="Shockey"/>。 |
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== 脚注 == |
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