久米島守備隊住民虐殺事件
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久米島守備隊住民虐殺事件(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけん)とは、沖縄戦の最中から終戦後に発生した島民の殺害事件である。久米島事件とも呼ばれる場合もある。
事件の背景
日本軍久米島守備隊が、アメリカ軍に拉致され﹁投降勧告状﹂を持って部隊にやってきた住民を敵に寝返ったスパイとして処刑したことに始まる事件で、異論が根強い沖縄戦での住民への集団自決が軍の強要かどうかの問題とは違い、実際にあった事件とされている。
この非戦闘員の処刑は現在の価値観に照らし合わせて人道上の問題があるだけでなく、当時の国内法や軍法、軍規からも逸脱する行為であった可能性が高い。まず陸軍刑法や海軍刑法、軍人勅諭をはじめ、国内法にスパイ容疑で裁判を経ずに処刑する法規が存在していない。たとえ明らかなスパイを犯罪者として現場で処罰する場合であっても、将校らによる軍法会議が最低限必要である。一介の准士官が主観的な判断のみで処刑を実行することはできないはずで、超法規的措置ないし違法行為の疑いがある。
その時の責任者である日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山正兵曹長︵事件当時24歳︶自身は、後に1972年に週刊誌のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、大日本帝国軍人として正当な行為であったと自らの正当性を訴えた。
事件の概要
沖縄戦も終盤にさしかかった1945年6月に、アメリカ軍がそれまで放置していた久米島を攻略するため、上陸作戦の2週間前に工作部隊が上陸し情報収集のため住民の16歳の少年も含む男性2名︵資料によっては3名とされており、途中で1名は自殺したとされる︶を拉致した。この男性らの情報から、島にはわずか27名の大日本帝国海軍が久米島に設置した電探︵レーダ︶を管理運営する通信兵などの守備隊しか駐留していないことを知ったアメリカ合衆国海兵隊は、上陸部隊の兵員を966人に減らしたという。久米島守備隊は武器弾薬に乏しく実戦部隊でなかったため、ほとんど組織的抵抗もできないまま占領された。
久米島派遣軍を率いるE・L・ウッド・ウイルソン少佐はただちに、占領業務のため久米島米軍政府を設置し、住民から島の村長と区長をあらたに指名するなど軍政府長官として久米島の行政を掌握した。また6月22日には、沖縄戦を指揮していた日本側の沖縄守備軍司令官であった牛島満中将と、参謀長の長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅し、6月25日には大本営が沖縄における組織的な戦闘の終了を発表した。現在では6月23日を﹁沖縄慰霊の日﹂として沖縄戦における戦没者の慰霊の日とされている。
しかし、牛島中将の最後の命令が﹁最後の一兵まで戦え﹂として降伏を許さないものに加え、沖縄戦に参加していた日本軍の指揮系統が崩壊していたため、組織的戦闘が終結した事実や、既に内地の大本営からも事実上見放されたことが正確に伝わらず、この後も残存兵力による散発的な戦闘が沖縄本島各地で続いていた。沖縄本島と同様に久米島に残された少数の守備隊も疑心暗鬼のなか勝算なきゲリラ活動を続け、そのなかで住民虐殺が発生した。
拉致された住民は6月26日、アメリカ軍の上陸時に一緒に解放されたが、守備隊の鹿山正兵曹長は拉致被害者に対し、アメリカに寝返ったのではないかという疑問を抱き、まず6月27日のアメリカ軍上陸時に、自宅から避難壕へ逃げる際に拉致され、山中の兵曹長の分遣隊へ降伏勧告状をもっていくように命令され、部隊にやってきた久米島郵便局の電信保守係︵郵便局長という説もあり︶であった安里を銃殺刑に処し、6月29日には工作部隊によって拉致︵治安悪化を理由にしたとも︶されていた区長の小橋川と区警防団長の糸数盛保の2家族9人を処刑し、その遺体を家屋ごと焼いた。
また兵曹長による刑罰はその後も続き、アメリカの上陸部隊によって部下の兵士と義勇兵を﹁切り込み隊﹂としてアメリカ軍に特攻させて、生きて帰ってきた部下を﹁処刑﹂した。ほか、アメリカ軍からの投降を呼びかけるビラを持っていたり、投降しようとした者についてもスパイもしくは利敵行為︵戦前の刑法では罪となった︶であるとして処刑を行った。兵曹長は守備隊の最高司令官として徹底抗戦の構えをみせ、山にこもって戦うように住民に指示し、従わないものは処刑すると警告した。また8月20日の処刑には地区の住民も命令に従い協力したという。また住民の中には鹿山と一緒に山に立てこもった者も少なくなかった。しかしながら戦況はアメリカ軍有利であることが明白であり、実際に久米島の実務はアメリカ軍政府が掌握しており、住民の多くはその命令に従わなかったという。
守備隊は8月18日には一家4名を処刑したほか、さらには兵曹長が若い女性を連れて︵人質にしたという説もある︶行軍していた一方で、物資を奪う目的で具志川村字上江洲に住むくず鉄集めで生計を立てていた朝鮮人谷川昇一家︵朝鮮名は不明︶を住民と部下に命令して8月20日に子供も含めて惨殺したという証言もあり、現在では、その事実を示す慰霊碑があるという。この行為は日本が降伏した8月15日以降の出来事であった。そのため、海軍刑法が禁ずる停戦命令後の私的戦闘の疑いもある。
9月になるころには、昭和天皇による玉音放送で﹃終戦詔書﹄が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人︵一説では29人︶であり、そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍だけでなく日本軍によって生命を奪われたわけである。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには突撃命令で特攻し、生きて戻ってきた兵士もいたという。
9月になるころには、昭和天皇による玉音放送で﹃終戦詔書﹄が伝達されている事実をしらされたこともあり、守備隊も最後は全面的に降伏した。最終的に守備隊が処刑した5件で住民は22人︵一説では29人︶であり、そのため住民は侵攻してくるアメリカ軍だけでなく日本軍によって生命を奪われたわけである。また守備隊の中にも命令に服従しなかったとして3人が処刑された。そのなかには突撃命令で特攻し、生きて戻ってきた兵士もいたという。
戦後
守備隊であるが、山にこもって玉砕することなく、9月4日に沖縄本島から来た旧日本海軍の上官の説得に応じアメリカ軍に投降し、沖縄本島からの脱出者なども含め41人が沖縄本島に移送された。連合国軍には鹿山兵曹長の行為は何ら咎められず、連合国側住民に対する虐殺ではなかったため﹁戦争犯罪﹂としては扱われず、そのまま他の軍人とともに復員していった。
また地元でも事件の遺族や当時を知る住民は﹁もう思い出したくない﹂と口を閉ざしたままであったが、一部の住民が告訴したが、鹿山の消息が不明であり、そのうえ戦後沖縄がアメリカ軍の統治下に入ったこともあり責任追及が行われることはなかった。1969年6月22日の沖縄タイムスによると、谷川一家は釜山出身の朝鮮人で遺骨の引き取る親族を探している記事もある。
復員した鹿山であるが、事件から27年後の59歳当時に徳島県内で生活しており、沖縄本土復帰を控えた1972年4月2日号の﹃サンデー毎日﹄にインタビュー記事が掲載され、彼は事件について概ね事実であったと認めたが、その一方で動機を、
スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです。
として、処刑は住民ではなく部隊を守る行動であったとして正当な業務行為であったことを主張した。
また8月18日には仲村渠一家4名虐殺については﹁アメリカ軍から食料品を受け取った﹂として、谷川一家︵釜山出身︶7名虐殺についても同様であったが﹁﹃朝鮮系﹄で家族は二人だったか、三人だったか。命令して部下にやらせたのです﹂と事実であると認めた。また事件を振り返って、
少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。いまは、戦争も罪悪視する平和時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。
と堂々と自己の正当性を訴えた。
なお大島幸雄著の﹃沖縄の日本軍﹄︵新泉社刊︶によれば、谷川一家を子供も含めて殺害した理由について鹿山は、朝鮮人一般の大日本帝國支配への反抗的性質から﹁こやつも将来日本を売ることになる﹂と危惧し、その旨を住民に説明したという。いずれにしても朝鮮人および久米島島民に対して深い疑心暗鬼の感情を現在も抱いている一連の発言に対して、当時の久米島にあった2つの村議会は鹿山個人に対する弾劾決議を採択したという。また虐殺された島民の遺族からも強い不快感が示された。
正当性
海軍刑法(明治四十一年法律第四十八号)の第1条は﹁本法ハ海軍軍人ニシテ罪ヲ犯シタル者ニ之ヲ適用ス﹂としており、一般日本人には適用されないと明記されている。また処刑するにしても軍法会議を経たうえで第16条は﹁海軍ニ於テ死刑ヲ執行スルトキハ海軍法衙ヲ管轄スル長官ノ定ムル場所ニ於テ銃殺ス﹂としており、一定の法的手続きを要求している。また日本国内でスパイとして処刑されたリヒャルト・ゾルゲは治安維持法等違反で処刑されたが、一般の刑事裁判で裁かれており、外地の戦場における占領地住民と同じように、内地であった沖縄県で部隊長の判断で処刑する権限があったのか疑問を呈する者もいる。
元兵曹長は軍法会議で処刑を決めず﹁住民からの情報﹂から判断して処刑したことについて、﹁われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった﹂と語っている。実際に、軍法会議は大戦末期には戦場で孤立化した部隊が続出したことから法務官不在でも開廷できたほか、少尉以上の士官が3人集まれば軍法会議をすぐ開催することができたうえに、戦時においては民間人にも特定の犯罪に関しては処断できるとされていた。
そのため一般人にも適用された可能性もあるが、海軍刑法22条の3で﹁軍事上ノ機密ヲ敵国ニ漏泄スルコト﹂︵スパイ︶と22条4では﹁敵国ノ為ニ嚮導ヲ為シ又ハ地理ヲ指示スルコト﹂は﹁罪﹂と規定されており、それに対する刑罰は20条で﹁首魁︵首謀者︶ハ死刑﹂と規定されているほか、そのほか謀議に入ったものも﹁死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ﹂とするなど重罰が規定されていた。そのため大部隊のように少尉以上の士官が3人︵それよりも少なくても即決で処刑が決められた場合も否定はできないが︶集まれば軍法会議をすぐ開催することができたため、住民に対するスパイ容疑での処刑があった可能性がある。しかし久米島においては守備隊長の最高位が兵曹長であり尉官より下の﹁准士官﹂であった。そのため久米島では軍法会議の開催は事実上不可能であったといえるため、兵曹長に住民を処刑する権限はなかった可能性もある。そのため、守備隊が住民を﹁合法的﹂に処刑することは、人道上の問題だけでなく、軍規にすら違反する行為であった疑いが高いとの指摘もある。
一方で、当時の日本がおかれていた絶対的不利の状況から国体を守らなければいけないため、このような過酷な命令も﹁必要悪﹂だったという意見もある。この意見に対して﹁軍規﹂無視を容認するものだとの批判もまた存在するが、当時の東條総理大臣が﹁スパイ行為などの犯罪者は現地で処理することを許す﹂と厳命もしていた事実[1]も存在する。
また時代的背景として部隊そのものが精神的極限状態に陥っており、一種の心神耗弱状態に陥っていて正常な判断︵兵曹長が戦闘指揮官としての教育を受けていなかった可能性もある︶ができなかった事情も考慮すべきかもしれない。実際に鹿山が朝日新聞に語ったインタビュー[2]にこの時の心情が垣間見える。また6月までには陸軍がくるはずと認識していることが伺えるため、彼は6月23日に沖縄戦が終結したことを知らなかった可能性もある。
海軍の久米島電探知機の見張所で約30人の部下を指揮していた。陸軍の守備隊がくる予定だったが、その前の6月27日、米軍が上陸・投降勧告状を久米島郵便局の安重正次郎さんが持ってきた。味方のはずの人間が敵側に回ったのか、ということで一層にくしみがわいてきて殺害した。ほかにも直接、間接のスパイ容疑で島民16人ぐらいを殺した。自己批判せよというのならするが、戦争中のことで、軍人としては日本の盛衰をかけてやったことだった
なお、これらの一連の虐殺事件であるが、終戦直後の混乱と日本政府からの管轄権分離という非常事態もあり、一切の刑事訴追を受けていない。そのため、事実上のクーデター未遂事件である宮城事件と同様に誰も罰せられることはなかった。
備考
●1945年6月23日に義勇兵役法が成立していたため、沖縄の住民も兵士と同様の扱いを受ける可能性もあった。また沖縄戦では一般人も事実上兵士として戦闘に参加していたが、久米島のようにスパイ容疑で処刑された住民がいたかは不明である。
●久米島を占領したアメリカ軍であるが、島内の家屋の3分の1弱しか焼失しておらず生活基盤が破壊されたわけではないとして、沖縄本島の避難民キャンプとは違い、援助物資をアメリカ軍の労務に対して支払われた賃金と引き換えに住民に渡したという。その時の賃金として支払われた代用紙幣が謄写版︵いわゆるガリ版刷り︶で印刷された久米島紙幣といわれる引換券であった。そのため生きていくために住民はアメリカ軍に協力せざるを得なかったといえる。また鹿内の部隊とともに山篭りした場合には一緒に掃討するとも脅かされていた。
●久米島守備隊の任務は一部書籍によると住民を守るためとの記述もあるが、前述のように大日本海軍が設置した電探︵レーダ︶設備を守るための部隊であった。武装も小銃や機関銃しかなく、要害といった基地もなかった。そのため、訓練された戦闘部隊とはいい難かった。
●事件の知名度が低いためか、久米島の事件を住民の集団自決またはアメリカ兵殺害事件であるとの誤った認識も少なからずある。また沖縄戦をめぐる教科書の記述で削除された﹁スパイとして日本軍に殺害された住民もいた﹂は、この事件のことをさし示すものされる。
●日本テレビ製作の﹃NNN ドキュメント'03﹄で、2004年8月8日に﹃逃亡兵の遺言﹄で久米島に沖縄本島から逃れてきた元日本兵であった渡辺憲央︵日刊工業新聞カメラマン︶の証言が放送[1]された。これによると守備隊は﹁疑心暗鬼にかられ島民に凶刃を振り下ろす殺戮部隊﹂であったと指摘していた。
参考文献
- 『サンデー毎日』1972年4月2日号。
- 紙面で証言者は匿名K元兵長としている、ただし後に沖縄の新聞で本名が明らかにされた。
- 『日本紙幣収集事典』 原点社、2005年、ISBN 978-4990202026。(久米島紙幣の項目より)
- 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典』 東京法経学院出版、2002年。
- 大田昌秀編纂 『これが沖縄戦だ 改訂版―写真記録』 那覇出版社、1998年。
脚注
外部リンク
- 沖縄タイムズの久米島の悲劇についての記事(1969年6月22日)
- 沖縄タイムスの渡辺憲央の久米島での体験にちて(2002年6月24日)
- 久米島事件の記録 (鹿山のインタビュー記事もあり)
- 昭和20年地獄の沖縄戦線を伝える「逃げる兵ー高射砲は見ていたー」の著者、渡辺憲央さんにお会いして!
- われらの「内」なる戦争犯罪(6)久米島事件 (久米島町教育委員会作成の資料を基にしている)
- われらの「内」なる戦争犯罪(7)久米島事件
- われらの「内」なる戦争犯罪(8)久米島事件
- 日本文化チャンネル桜掲示板『沖縄県・久米島での日本軍による島民殺害』(「日本文化チャンネル桜」の過去のスレット、事件を捏造だと主張する意見について閲覧できる)