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京職は京に関わる[[行政]]・[[治安]]・[[司法]]一切を統括する。京職は地方における[[国司]]に相当する職掌<ref>[[職員令]]をみると、国司の職掌のうち、寺社・駅伝・勧農・烽候などは京職は行わず︵地理的に不要もしくは他の中央官司が行う︶、市廛︵市場とそこにある店舗︶・度量衡・道橋の修理清掃などは京職独特の職務である︵市川、2009年、P15-21︶。</ref>を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司として国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が[[外官]]︵地方官︶であるのに対し、京職は[[京官]]︵中央官︶扱いであることからも分かる<ref>市川、2009年、P14-27</ref>。
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京職は京に関わる[[行政]]・[[治安]]・[[司法]]一切を統括する。京職は地方における[[国司]]に相当する職掌<ref>[[職員令]]をみると、国司の職掌のうち、寺社・駅伝・勧農・烽候などは京職は行わず︵地理的に不要もしくは他の中央官司が行う︶、市廛︵市場とそこにある店舗︶・度量衡・道橋の修理清掃などは京職独特の職務である︵市川、2009年、P15-21︶。</ref>を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司として国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が[[外官]]︵地方官︶であるのに対し、京職は[[京官]]︵中央官︶扱いであることからも分かる<ref>市川、2009年、P14-27</ref>。
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行政事務を補佐するために各条ごとに'''坊令'''、各坊ごとに'''坊長'''︵町長︶が置かれ、末端まで統治した。坊令・坊長はそれぞれ[[郡司]]・[[里長]]に相当するが、京には郡司級の在地の有力豪族が存在しなかったことから、坊令には坊内に居住する[[京戸]]でかつ八位・初位の位階を有した者から選ばれていた。坊長には坊内に居住する[[白丁]]から選ばれた。坊長は坊内の京戸の戸籍を管理するとともに、租税の徴収、雑徭・兵士の徴発、犯罪発生時の官司への追放と犯人の追捕、坊内の治安維持、坊内で発生した奴婢・家地の売買・裁判における証明・調査など、坊内における徴税的・警察的な業務を行っていた<ref>唐の制度では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正︵日本の坊令に相当︶と里正︵日本の里長に相当︶がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。</ref><ref>市川、2009年、P82-98</ref>。坊令は令制では定員12人であるが、遷都ともに変化した。
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ところが、平安京に遷都して以後、従来は京外に別に拠点を有していた貴族層の京への定着が進むとともに、坊令の命令に従わない貴族およびその従者が増加して問題化していった。このため、[[貞観 (日本)|貞観]]4年︵[[862年]]︶に左京大夫[[紀今守]]の提言によって坊令に代わって[[保長]]を設置し、貴族や官人をこれに任じることとなった<ref>﹃日本三代実録﹄貞観4年3月15日条</ref>。[[平安時代]]中期︵10世紀中期︶になると、保長の制度も機能しなくなり、地域社会に台頭した有力者を[[保刀禰]]に任ずることでかつての坊令・保長が担ってきた役割を果たさせようとした。だが、次第に治安権限を[[検非違使]]に奪われ、京職の機能も形骸化していった<ref>市川、2009年、P103-113</ref>。
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[[室町時代]]には、三管領のひとつ[[細川氏]][[宗家]]が右京大夫の職を世襲したため、[[細川氏]][[宗家]]は[[細川氏|京兆家]]とよばれた。 |
[[室町時代]]には、三管領のひとつ[[細川氏]][[宗家]]が右京大夫の職を世襲したため、[[細川氏]][[宗家]]は[[細川氏|京兆家]]とよばれた。 |
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になり、[[朝廷]]や[[公家]]が経済的に困窮し、[[官位]]が売られるようになると、[[武家]]の名門である、管領細川家の代名詞とも言える右京大夫は、地方の[[戦国大名]](特に[[東北地方]]の[[大名]])にとって箔付けのために最も人気のある官位であったという。 |
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になり、[[朝廷]]や[[公家]]が経済的に困窮し、[[官位]]が売られるようになると、[[武家]]の名門である、管領細川家の代名詞とも言える右京大夫は、地方の[[戦国大名]](特に[[東北地方]]の[[大名]])にとって箔付けのために最も人気のある官位であったという。 |
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== 職員 == |
== 職員 == |
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2012年1月18日 (水) 15:02時点における版
京職︵きょうしき︶とは、日本の律令制において京︵みやこ︶の庶政を行う行政機関である。古訓はミサトツカサ。京は碁盤の目状に大路・小路が整備され︵条坊制︶、京内の東側を﹁左京︵さきょう︶﹂、西側を﹁右京︵うきょう︶﹂と呼ぶ。このため京職も東西に設置され、それぞれ﹁左京職︵さきょうしき︶﹂・﹁右京職︵うきょうしき︶﹂という。
職掌
京職は京に関わる行政・治安・司法一切を統括する。京職は地方における国司に相当する職掌[1]を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司として国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が外官︵地方官︶であるのに対し、京職は京官︵中央官︶扱いであることからも分かる[2]。
左右二職ありそれぞれ左京・右京を統治する。被官に市司︵いちのつかさ︶があり、それぞれ左京職が東市司を、右京職が西市司をそれぞれ管轄し市場に関する事務を取り扱った。唐名を﹁京兆︵けいちょう︶﹂という。
行政事務を補佐するために各条ごとに坊令、各坊ごとに坊長︵町長︶が置かれ、末端まで統治した。坊令・坊長はそれぞれ郡司・里長に相当するが、京には郡司級の在地の有力豪族が存在しなかったことから、坊令には坊内に居住する京戸でかつ八位・初位の位階を有した者から選ばれていた。坊長には坊内に居住する白丁から選ばれた。坊長は坊内の京戸の戸籍を管理するとともに、租税の徴収、雑徭・兵士の徴発、犯罪発生時の官司への追放と犯人の追捕、坊内の治安維持、坊内で発生した奴婢・家地の売買・裁判における証明・調査など、坊内における徴税的・警察的な業務を行っていた[3][4]。坊令は令制では定員12人であるが、遷都ともに変化した。
ところが、平安京に遷都して以後、従来は京外に別に拠点を有していた貴族層の京への定着が進むとともに、坊令の命令に従わない貴族およびその従者が増加して問題化していった。このため、貞観4年︵862年︶に左京大夫紀今守の提言によって坊令に代わって保長を設置し、貴族や官人をこれに任じることとなった[5]。平安時代中期︵10世紀中期︶になると、保長の制度も機能しなくなり、地域社会に台頭した有力者を保刀禰に任ずることでかつての坊令・保長が担ってきた役割を果たさせようとした。だが、次第に治安権限を検非違使に奪われ、京職の機能も形骸化していった[6]。
室町時代には、三管領のひとつ細川氏宗家が右京大夫の職を世襲したため、細川氏宗家は京兆家とよばれた。
戦国時代になり、朝廷や公家が経済的に困窮し、官位が売られるようになると、武家の名門である、管領細川家の代名詞とも言える右京大夫は、地方の戦国大名︵特に東北地方の大名︶にとって箔付けのために最も人気のある官位であったという。
職員
それぞれ左右二職に設置された
- 坊令(無位 → 少初位下)
- 坊長
- 史生
- 職掌 新設
- 使部
- 直丁
被官として 東・西市司
備考:藤原仲麻呂政権下で左右京を一人で統治する京尹(きょういん)が置かれた。
脚注
- ^ 職員令をみると、国司の職掌のうち、寺社・駅伝・勧農・烽候などは京職は行わず(地理的に不要もしくは他の中央官司が行う)、市廛(市場とそこにある店舗)・度量衡・道橋の修理清掃などは京職独特の職務である(市川、2009年、P15-21)。
- ^ 市川、2009年、P14-27
- ^ 唐の制度では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正(日本の坊令に相当)と里正(日本の里長に相当)がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。
- ^ 市川、2009年、P82-98
- ^ 『日本三代実録』貞観4年3月15日条
- ^ 市川、2009年、P103-113
参考文献
- 市川理恵『古代日本の京職と京戸』(吉川弘文館、2009年) ISBN 978-4-642-02473-0