伊東悌次郎
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伊東 悌次郎︵いとう ていじろう、嘉永5年︵1854年︶ - 慶応4年8月23日︵1868年10月8日︶︶は、幕末の会津藩士の子弟。白虎隊隊士。
略歴[編集]
嘉永5年︵1854年︶、伊東佐太夫の次男に生まれた。母はすみ子[1]。 11歳で藩校・日新館に入り、尚書塾一番組に編入され、その勤学を藩公から屡々賞賜を受けた。 大伯父の某氏は柔術に精しく、また砲術家・山本覚馬の家と接近していたため、柔術も砲術も子供に似合わず上手であった。また、馬術もすぐれていた。 身長高く大柄だったので、父・左太夫は白虎隊士中二番隊長・日向内記に掛け合い、年齢を偽って白虎隊士中二番隊士になった。出陣にあたり、かねてから強く所望していた名刀︵備前兼光︶を両親から与えられ、喜び勇んで出陣していったという[1]。 慶応4年8月22日︵1868年10月7日︶、藩主・松平容保に従って滝沢に向かい、進んで戸ノ口原に出陣し、戦ったが新政府軍にはかなわず、退却することになった[2]。 翌日、負傷した池上新太郎を助けているうちに、白虎隊士中二番隊の17人より遅れて飯盛山に着き、既に自決した同士の姿を見て、悌次郎も自刃したという[1]。 享年15。 墓は福島県会津若松市一箕町の飯盛山。死後[編集]
戦後、悌次郎の親友・井深茂太郎の遺族が、占いで茂太郎の死地を探し当てた際、茂太郎の遺骸とともに悌次郎の遺骸も見つかった。遺族は、遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置き、遺髪のみを持ち帰って菩提所に葬ったという[1]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 二瓶由民『白虎隊勇士列伝』私家版、1891年
- 平石弁蔵『會津戊辰戦争』丸八商店出版部、1917年
- 神崎清『少年白虎隊』学習社、1943年
- 宮崎十三八安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年
- 宗川虎次『會津白虎隊十九士傳』マツノ書店、2006年