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'''会沢 精子祭'''︵あいざわ せいしさい、[[天明]]2年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]︵[[1782年]][[7月5日]]︶ - [[文久]]3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]︵[[1863年]][[8月27日]]︶︶は、[[江戸時代]]後期から末期︵[[幕末]]︶の[[水戸藩]]士、[[水戸学]]藤田派の学者・[[思想家]]。名は安︵やすし︶。字は伯民。通称は恒蔵。号は精子祭、欣賞斎、憩斎。
2019センター試験倫理で出題された。
== 生涯 ==
天明2年(1782年)、水戸藩士・[[会沢恭敬]]の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。母は根本重政の娘。幼名は市五郎、または安吉。会沢家は代々[[久慈郡]]諸沢村([[常陸大宮市]]諸沢)の農家で、初代藩主・[[徳川頼房]]のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に[[士分]]となった。うんちもれたHeart
[[寛政]]3年︵[[1791年]]︶、10歳にて[[藤田幽谷]]の私塾︵のちの青藍舎︶へ入門する。師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ[[実学]]を奨励した。後に正志斎は幽谷の教育内容を﹃及門遺範﹄にまとめている。寛政11年︵[[1799年]]︶、﹃[[大日本史]]﹄の修史局の[[彰考館]]に入り書写生となる。また、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[アダム・ラクスマン]]が根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、[[享和]]元年︵[[1801年]]︶に﹃千島異聞﹄を著す。
享和3年︵[[1803年]]︶、格式留守列となり、江戸彰考館勤務となる。[[文政]]4年︵[[1821年]]︶には藩主・[[徳川治紀]]の諸公子の侍読︵教育係︶を命じられ、その中に後の9代藩主・[[徳川斉昭|斉昭]]もいた。文政6年︵[[1823年]]︶、進物番上座となる。文政7年︵[[1824年]]︶、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸した[[イギリス]]の[[捕鯨]]船員と会見した。その会見の様子を記した﹃暗夷問答﹄を著し、翌年に対策についての考察、いわゆる[[尊王攘夷]]論について体系的にまとめた﹃新論﹄を著して藩主・[[徳川斉脩]]に上呈したが、内容が過激であるという理由で公には出版されなかった。
文政9年([[1826年]])、幽谷の死去を受けて[[彰考館]]総裁代役に就任した。文政12年([[1829年]])、藩主・斉脩の後継問題で敬三郎(斉昭)を擁立する運動に参加し、[[山野辺義観]]、[[藤田東湖]]らとともに江戸へ出て奔走した。無断で江戸に出た罪で逼塞を命じられたが、30日ほどで許されて[[郡奉行]]となる。翌年通事、調役となり、また[[彰考館]]総裁となった。以後、斉昭から取り立てられ、[[藩政改革]]を補佐した。[[天保]]3年([[1832年]])、禄高150石。天保9年([[1838年]])、学校造営掛に任じられ、藩校の規模・教育内容を研究して『学制略説』などを著す。天保11年([[1840年]])には小姓頭となり、藩校の[[弘道館]]の初代教授頭取に任じられた。同時に役料200石が給され、計350石となる。弘道館は翌年開校され、水戸学発展に貢献した。
[[弘化]]2年([[1845年]])、斉昭は[[江戸幕府]]から藩政改革の問題点を指摘されて隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられた。[[嘉永]]2年([[1849年]])に斉昭が復帰すると同時に赦免され、のちに弘道館教授に復帰した。[[安政]]2年(1855年)、将軍・[[徳川家定]]に謁見する。
安政5年([[1858年]])、幕府の[[日米修好通商条約]]締結に関して、朝廷から水戸藩に[[戊午の密勅]]が下ると、会沢は密勅を水戸藩から諸藩へ回送することに反対して、勅諚の朝廷への返納を主張し、藩内の尊王攘夷鎮派の領袖として尊皇攘夷激派と対立する。斉昭が[[安政の大獄]]で永蟄居処分となると藩内はさらに混迷し、正志斎はその収拾に努めた。文久2年([[1862年]])には一橋慶喜([[徳川慶喜]])に対して、[[開国]]論を説いた『時務策』を提出する。このため、激派からは「老耄」と批判された。同年、馬廻頭上座を務める<ref>{{Cite |和書|others=[[山本博文]]監修|title=江戸時代人物控1000|date=2007|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-626607-6|page=7}}</ref>。
文久3年︵1863年︶、水戸の自邸にて死去。82歳。墓所は[[茨城県]][[水戸市]]の本法寺。
正志斎は『新論』において尊王攘夷論を唱えた人物として知られるが、後年『時務策』を著しており開国を全面的には否定しなかった。『新論』は幕府に遠慮して出版はされず、無名氏の執筆として写され、多くの人々に読まれた。[[長州藩]]の[[吉田松陰]]や[[久留米藩]]の[[真木保臣]]が水戸を訪れ、正志斎に面会している。特に吉田の『東北遊日記』には、「会沢を訪ふこと数次、率ね酒を設く。…会々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。
== 著書 ==
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2019年1月21日 (月) 04:54時点における版
脚注