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* 『千代田日誌』(明治22年~23年)
* 『朝倉日誌』(明治32年)
*『神理教教祖御日誌第二巻』神理教大教庁教書刊行会刊、1953年。以下
**『熊本日誌』『三しまめぐり』
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2012年5月31日 (木) 18:02時点における版
佐野 経彦 ︵さの つねひこ、天保5年2月16日︵1834年3月25日︶ - 明治39年︵1906年︶10月19日︶は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の宗教家。神理教教祖。豊前国企救郡徳力︵現在の福岡県北九州市小倉南区︶出身。
概要
明治維新後に宗教家として独立し、1868年に神理教を創始。布教活動を開始する。1880年、北九州市小倉南区に神理教会を設立し、北九州一帯に信者を拡大した。1890年、神理教の御嶽教からの独立に伴い初代管長に就任。生涯を神理教の普及活動に尽くした。著書も多数ある。 国学を学び、当初は﹁皇道医学﹂と称して医者であったが、肉体の病よりも民心を救おうと決意する。その後、日本の古典である神典に登場する饒速日︵ニギハヤヒノミコト︶に連なる巫部の家系図は、その77代目にあたる佐野恒彦の神道家としての理念を形成した[1]。著書
主なもの ●﹃神理図﹄[2] 経彦の思想の根底の書である[3]。 ●﹃本教神理図解﹄上、本教神理教会、1883年︵明治16年︶上記の書の解説書である[4]。 ●﹃本教神理図解﹄下、本教神理教会、1883年︵明治16年︶ ●﹃本教神理学入門﹄本教神理教会、1883年︵明治16年︶ ●﹃産須根神考﹄本教神理教会、1883年︵明治16年︶ ●﹃神理教書宇賀神本義﹄神理教会総本院、1889年︵明治22年︶ ●﹃神理教書竈大神本記﹄神理教会総本院、1889年︵明治22年︶ ●﹃神理教由来記﹄神理教本院、1894年︵明治27年︶ ●﹃神理教々祖御日誌﹄神理教本院、1930年︵昭和5年︶ なお生涯著作活動を続け、その著作は二七〇部千巻といわれる[5]。たとえば、﹃本教要言﹄﹃天津皇産霊孝﹄[6]、﹃神理指南図解﹄[3]、﹃遺言書﹄︵1905年、明治38年︶[3]がある。日誌[7]
●﹃神理教教祖御日誌第一巻﹄神理教大教庁宣教課、1928年。以下三巻を収録 ●﹃田川紀行﹄﹃崎山紀行﹄︵明治3年︶ ●﹃東行記﹄︵明治14~15年︶全五巻のうち第四巻は紛失している[8]。 ●﹃穂波日誌﹄︵明治18年5月、筑前紀行︶ ●﹃赤間日誌﹄﹃築城日誌﹄︵明治18年12月、築城川紀行︶ ●﹃千代田日誌﹄︵明治22年~23年︶ ●﹃朝倉日誌﹄︵明治32年︶ ●﹃神理教教祖御日誌第二巻﹄神理教大教庁教書刊行会刊、1953年。以下二巻を収録 ●﹃熊本日誌﹄﹃三しまめぐり﹄関連項目
●神理教 ●教派神道脚注
参考文献
- 井上順孝ほか編 編『新宗教教団・人物事典』弘文堂、1996年1月、457頁。ISBN 978-4335160288。
- 井上順孝「第四章:佐野恒彦と神理教の形成」『教派神道の形成』弘文堂、1991年4月、133-230頁。ISBN 978-4335160219。
- 藤江伊佐彦『教祖様の面影』1913年(1985年再刊)
- 藤江伊佐彦『神理の暁天』1920年
- 佐野豊『教祖の伝統』神理教大教庁宣教課、1925年
- 佐野高峰『神理教教祖御小伝』神理教本院、1930年