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[[劉義宗]]の子として生まれた。はじめ著作郎となり、羽林監・越騎校尉・中書侍郎・黄門侍郎を歴任した。[[泰始 (南朝宋)|泰始]]初年、[[侍中]]となった。左衛将軍・丹陽尹・太子詹事・吏部尚書を歴任した。当時皇族の数は多かったが、才能のある者は少なかった。劉秉は朝野における評価が高く、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]に重用された。[[469年]] |
[[劉義宗]]の子として生まれた。はじめ著作郎となり、羽林監・越騎校尉・中書侍郎・黄門侍郎を歴任した。[[泰始 (南朝宋)|泰始]]初年、[[侍中]]となった。左衛将軍・丹陽尹・太子詹事・吏部尚書を歴任した。当時皇族の数は多かったが、才能のある者は少なかった。劉秉は朝野における評価が高く、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]に重用された。泰始5年︵[[469年]]︶、[[前将軍]]・淮南宣城二郡[[太守]]となった。泰始7年︵[[471年]]︶、再び侍中となり、秘書監を代行し、太子詹事を兼ねた。受けないうちに使持節・都督南徐徐兗豫青冀六州諸軍事・[[後将軍]]・[[南徐州]][[刺史]]に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。[[泰豫]]元年︵[[472年]]︶閏7月、都督[[郢州]][[豫州]]之西陽[[司州]]之義陽二郡諸軍事・郢州刺史に任じられた。11月、尚書左僕射となった。
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[[元徽 (南朝宋)|元徽]]元年([[473年]])、吏部を兼ねた。まもなく衛尉を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。桂陽王[[劉休範]]が反乱を起こすと、劉秉は領軍将軍を兼ねて、宮中に入った。元徽2年([[474年]])、散騎常侍・丹陽尹の任を加えられ、吏部の任を解かれた。当陽県侯に封じられた。[[蕭道成]]・[[袁粲]]・[[褚淵]]とともに日割りで宮中に入って国事を決裁した。元徽4年([[476年]])、[[中書令]]となり、撫軍将軍の号を加えられた。 |
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=== 妻 === |
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*蕭氏([[蕭思話]]の娘) |
*蕭氏([[蕭思話]]の娘) |
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*{{仮リンク|劉承 (南朝宋)|label=劉承|zh|劉承 (劉宋))}} |
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*劉承 |
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*劉俁 |
*[[劉俁]] |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2021年12月17日 (金) 03:22時点における最新版
経歴[編集]
劉義宗の子として生まれた。はじめ著作郎となり、羽林監・越騎校尉・中書侍郎・黄門侍郎を歴任した。泰始初年、侍中となった。左衛将軍・丹陽尹・太子詹事・吏部尚書を歴任した。当時皇族の数は多かったが、才能のある者は少なかった。劉秉は朝野における評価が高く、明帝に重用された。泰始5年︵469年︶、前将軍・淮南宣城二郡太守となった。泰始7年︵471年︶、再び侍中となり、秘書監を代行し、太子詹事を兼ねた。受けないうちに使持節・都督南徐徐兗豫青冀六州諸軍事・後将軍・南徐州刺史に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。泰豫元年︵472年︶閏7月、都督郢州豫州之西陽司州之義陽二郡諸軍事・郢州刺史に任じられた。11月、尚書左僕射となった。 元徽元年︵473年︶、吏部を兼ねた。まもなく衛尉を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。桂陽王劉休範が反乱を起こすと、劉秉は領軍将軍を兼ねて、宮中に入った。元徽2年︵474年︶、散騎常侍・丹陽尹の任を加えられ、吏部の任を解かれた。当陽県侯に封じられた。蕭道成・袁粲・褚淵とともに日割りで宮中に入って国事を決裁した。元徽4年︵476年︶、中書令となり、撫軍将軍の号を加えられた。 昇明元年︵477年︶7月、順帝が即位すると、劉秉は尚書令・中領軍に任じられた。順帝を擁立した蕭道成が朝政の実権を握ったため、劉秉はひそかに蕭道成の打倒を企図していた。12月、沈攸之の乱が起こると、劉秉は石頭に駐屯する袁粲とともに起兵しようと計画した。家族を石頭に送り出すと、従弟の劉韞︵伯父の劉義欣の子︶や直閤将軍の卜伯興とともに蕭道成に対する夜襲を謀った。計画は事前に察知されており、劉韞は王敬則に捕らえられて殺害され、卜伯興もまた処断された。袁粲が敗れると、劉秉は城を脱出して逃げ出したが、頟檐湖で捕らえられ、ふたりの子とともに殺害された。享年は45。妻子[編集]
妻[編集]
- 蕭氏(蕭思話の娘)