劉休範
劉 休範︵りゅう きゅうはん、元嘉25年︵448年︶- 元徽2年5月22日︵474年6月22日︶︶は、南朝宋の皇族。文帝劉義隆の十三男。明帝劉彧の弟。
生涯[編集]
孝建3年︵456年︶、順陽王に封じられ、後に桂陽王に改封された。大明3年︵459年︶、江州刺史となった。明帝が劉子勛の乱を平定すると、南徐州刺史とされたが再び江州刺史とされた。 明帝により兄弟が殺されていたが、凡庸だった休範だけは粛清を免れた。泰予元年︵472年︶に明帝が崩御すると、遺詔により司空となる。明帝の息子とされる蒼梧王劉昱が即位したが、劉昱も叔父ら諸王十数人を殺したために叛逆を企て、元徽2年︵474年︶5月に尋陽で挙兵した。休範の軍は建康に迫ったが[1]、わずか10日ぶりに右衛将軍の蕭道成に敗れて殺された[2][3][4]。享年27。 この反乱平定により、蕭道成は国務に参画するようになり、後に南朝斉の建国の礎のひとつとなった[2]。脚注[編集]
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 176.
- ^ a b 駒田 & 常石 1997, p. 177.
- ^ 川本 2005, p. 150.
- ^ 『宋書』巻9, 後廃帝紀 元徽二年五月壬辰条による。