劉秉
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劉秉︵りゅう へい、433年 - 477年︶は、南朝宋の皇族。当陽侯。字は彦節。
経歴
劉義宗の子として生まれた。はじめ著作郎となり、羽林監・越騎校尉・中書侍郎・黄門侍郎を歴任した。泰始初年、侍中となった。左衛将軍・丹陽尹・太子詹事・吏部尚書を歴任した。当時皇族の数は多かったが、才能のある者は少なかった。劉秉は朝野における評価が高く、明帝に重用された。469年︵泰始5年︶、前将軍・淮南宣城二郡太守となった。471年︵泰始7年︶、再び侍中となり、秘書監を代行し、太子詹事を兼ねた。受けないうちに使持節・都督南徐徐兗豫青冀六州諸軍事・後将軍・南徐州刺史に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。472年︵泰予元年︶閏月、都督郢州豫州之西陽司州之義陽二郡諸軍事・郢州刺史に任じられた。11月、尚書左僕射となった。473年︵元徽元年︶、吏部を兼ねた。まもなく衛尉を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。桂陽王劉休範が反乱を起こすと、劉秉は領軍将軍を兼ねて、宮中に入った。474年︵元徽2年︶、散騎常侍・丹陽尹の任を加えられ、吏部の任を解かれた。当陽県侯に封じられた。蕭道成・袁粲・褚淵とともに日割りで宮中に入って国事を決裁した。476年︵元徽4年︶、中書令となり、撫軍将軍の号を加えられた。 477年︵昇明元年︶7月、順帝が即位すると、劉秉は尚書令・中領軍に任じられた。順帝を擁立した蕭道成が朝政の実権を握ったため、劉秉はひそかに蕭道成の打倒を企図していた。12月、沈攸之の乱が起こると、劉秉は石頭に駐屯する袁粲とともに起兵しようと計画した。家族を石頭に送り出すと、従弟の劉韞や直閤将軍の卜伯興とともに蕭道成に対する夜襲を謀った。計画は事前に察知されており、劉韞は王敬則に捕らえられて殺害され、卜伯興もまた処断された。袁粲が敗れると、劉秉は城を脱出して逃げ出したが、額簷湖で捕らえられ、ふたりの子とともに殺害された。享年は45。妻子
妻
- 蕭氏(蕭思話の娘)