「北畠親房」を編集中
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===奥州への赴任=== |
===奥州への赴任=== |
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鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による[[建武の新政]]が始まると、親房は政界に復帰した。しかし、親房は後醍醐と対立していた[[護良親王]]派の人物であったため、[[陸奥国|奥州]]駐屯を命じられた長男の[[北畠顕家|顕家]]に随行し、義良親王︵のちの[[後村上天皇]]︶を奉じて[[陸奥国]][[多賀城]]へ赴くこととなった。[[陸奥将軍府]]設置の主導は[[護良親王]]であった。護良親王は、東北に所領を多く有していた東国武士団が足利氏に組織されつつある状況を憂慮し、東北を東国から切り離すことで、足利の勢力を削ごうとした<ref name="#1"/>。護良親王が親房と顕家を陸奥に向かわせたことに対して、かつては反論があった。これは、﹃[[神皇正統記]]﹄には親房と護良親王の関わりが一切描写されていないためであった。しかし、﹃神皇正統記﹄には親房が最も心を込めて養育したはずの[[世良親王]]に関する記述が全く見当たらず、また、親房自身が護良親王と連携し、後醍醐と対立する行動を取っていたことを﹃神皇正統記﹄に記すわけにはいかなかったという理由から、﹃神皇正統記﹄には見えずとも親房と護良親王は深く連携し合っていたと考えられる<ref name="#1"/>。また、建武政権成立時の親房や子の顕家にとって、陸奥に向かわされたことは左遷にも等しいことであり、後醍醐が陸奥下向を |
鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による[[建武の新政]]が始まると、親房は政界に復帰した。しかし、親房は後醍醐と対立していた[[護良親王]]派の人物であったため、[[陸奥国|奥州]]駐屯を命じられた長男の[[北畠顕家|顕家]]に随行し、義良親王︵のちの[[後村上天皇]]︶を奉じて[[陸奥国]][[多賀城]]へ赴くこととなった。[[陸奥将軍府]]設置の主導は[[護良親王]]であった。護良親王は、東北に所領を多く有していた東国武士団が足利氏に組織されつつある状況を憂慮し、東北を東国から切り離すことで、足利の勢力を削ごうとした<ref name="#1"/>。護良親王が親房と顕家を陸奥に向かわせたことに対して、かつては反論があった。これは、﹃[[神皇正統記]]﹄には親房と護良親王の関わりが一切描写されていないためであった。しかし、﹃神皇正統記﹄には親房が最も心を込めて養育したはずの[[世良親王]]に関する記述が全く見当たらず、また、親房自身が護良親王と連携し、後醍醐と対立する行動を取っていたことを﹃神皇正統記﹄に記すわけにはいかなかったという理由から、﹃神皇正統記﹄には見えずとも親房と護良親王は深く連携し合っていたと考えられる<ref name="#1"/>。また、建武政権成立時の親房や子の顕家にとって、陸奥に向かわされたことは左遷にも等しいことであり、後醍醐が陸奥下向を指示したならば、親房と顕家を高位高官に叙任してから下向させていたと考えられる<ref name="#1"/>。さらに、親房と顕家が下向した後の陸奥国の政治体制は﹁奥州小幕府体制﹂と称すべきものであり、それは自ら征夷大将軍の地位を望んだ護良親王の発想にこそ似つかわしく、幕府政治の復活を決して認めようとしなかった後醍醐のする発想ではない<ref name="#1"/>。加えて、護良親王には[[南部氏]]や[[工藤氏]]といった奥州の武士が仕えていたことが﹃[[梅松論]]﹄に記されており、陸奥が護良親王の重要な支持基盤であったと考えられる。以上のことからも、親房と護良親王の連携の跡が窺える<ref name="#1"/>。
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[[建武 (日本)|建武]]2年︵1335年︶に[[北条氏]]の残党による[[中先代の乱]]が起き、討伐に向かった[[足利尊氏]]が鎌倉でそのまま建武政権から離反、こののち西上して京都を占領すると、1336年︵建武3年︶1月親房は尊氏を討伐するために京へ戻り、[[新田義貞]]・[[楠木正成]]とともにいったんは尊氏を駆逐する。しかし九州に落ち延びた尊氏は急速に体制を立て直し大軍を率いて東上、これを迎え撃つ義貞・正成の軍勢を同年5月[[湊川の戦い]]で撃破して京都を再占領、比叡山に逃れた後醍醐天皇は再度の退位を迫られる。しかし後醍醐天皇が京都を脱出し、[[吉野行宮|吉野に行宮]]を開くと親房はそのまま[[南朝 (日本)|南朝方]]に合流、尊氏によって擁立された[[光明天皇]]の[[北朝 (日本)|北朝方]]に対抗する。
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[[建武 (日本)|建武]]2年︵1335年︶に[[北条氏]]の残党による[[中先代の乱]]が起き、討伐に向かった[[足利尊氏]]が鎌倉でそのまま建武政権から離反、こののち西上して京都を占領すると、1336年︵建武3年︶1月親房は尊氏を討伐するために京へ戻り、[[新田義貞]]・[[楠木正成]]とともにいったんは尊氏を駆逐する。しかし九州に落ち延びた尊氏は急速に体制を立て直し大軍を率いて東上、これを迎え撃つ義貞・正成の軍勢を同年5月[[湊川の戦い]]で撃破して京都を再占領、比叡山に逃れた後醍醐天皇は再度の退位を迫られる。しかし後醍醐天皇が京都を脱出し、[[吉野行宮|吉野に行宮]]を開くと親房はそのまま[[南朝 (日本)|南朝方]]に合流、尊氏によって擁立された[[光明天皇]]の[[北朝 (日本)|北朝方]]に対抗する。
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