十河一存
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十河一存 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 永禄4年3月18日(1561年4月2日) |
別名 |
又四郎(幼名)、三好長正 鬼十河(渾名) |
戒名 | 靭翁宗活公禅定門。靭翁活公禅定門 |
墓所 | 大阪府堺市の南宗寺 |
官位 | 左衛門尉、左衛門督、民部大輔、讃岐守 |
氏族 | 三好氏→十河氏 |
父母 | 父:三好元長、養父:十河景滋(存春) |
兄弟 |
三好長慶、三好実休、安宅冬康 一存、野口冬長 |
妻 | 正室:九条稙通の娘 |
子 |
三好義継(三好長慶養子)、十河存之、 松浦孫八郎[1] 養子:十河存保 (三好実休の子) |
十河 一存︵そごう かずまさ /かずなが︶は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の四男。
生涯
天文元年︵1532年︶、三好元長の四男として阿波勝瑞城で生まれる。兄に三好長慶、三好実休、安宅冬康、弟に野口冬長がいる。 讃岐十河城主の十河景滋︵存春︶の世子の十河金光が早世したこともあり、長兄の長慶の命により景滋の養子となって十河氏の家督を継いだ[2]。 天文18年︵1549年︶6月には父の仇である三好政長との摂津江口の戦いで勝利に貢献した。これにより細川晴元の政権は崩壊し、兄・長慶の政権が確立する。天文19年︵1550年︶の東山の戦いで京都復帰を狙う晴元を阻止、天文22年︵1553年︶6月の阿波見性寺事件の際も次兄の実休を助けて細川持隆殺害に協力した[2]。永禄元年︵1558年︶の北白川の戦いに参戦、永禄3年︵1560年︶には畠山高政との戦いで大勝し、長慶から岸和田城主に任じられた。その後も畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐した。 しかし、永禄4年︵1561年︶3月18日︵異説として4月︶[3]、病を患い、子・松浦萬満の後見のために在住していた和泉国で死去した。享年30。実子・義継は長慶に引き取られて後にその家督を継いだため、甥︵実休の次男︶の存保が養子となって十河氏の家督を継いだ。同じく実子の十河存之は庶子のため跡を継がず、存保の家老となった。死因
一存の死因は、瘡による病死といわれる。しかし一存が死んだ時に不仲であった松永久秀が傍にいたことから、当時から京都では久秀による暗殺説が伝聞として流れた。以下のような逸話がある。 ﹃足利季世記﹄ならびに﹃続応仁後記﹄は、一存の死去について以下のように伝える。永禄3年︵1560年︶頃に一存は病にかかった。そこで摂津の有馬温泉で一存が久秀と湯治中のとき、久秀が一存の乗馬である葦毛馬を見て、﹁有馬権現は葦毛を好まないため、その馬には乗らないほうがいい﹂と忠告した。しかし久秀を嫌う一存は忠告を無視して乗馬し、そして落馬して絶命したというものである[4]。 この話について、長江正一は、病を得ていた一存がわざわざ乗馬をするだろうか、武勇に長け乗馬にも習熟していたと思われる一存がはたして落馬するものだろうかという疑問を呈している[5]。 さらに、実際には一存が没したのは翌永禄4年の4月であり[6]、この話は、死去した時期にも誤謬が生じている。人物・逸話
●あるとき、一存は合戦中に左腕を負傷した。普通ならば養生するであろうが、一存は傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったという。このため、一存は﹁鬼十河﹂︵鬼十川︶と呼ばれて敵に恐れられたという。その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は﹁十河額﹂と呼ばれて、真似する家臣も多かったという[7]。 ●兄を軍事的によく補佐したため、その死は三好軍の軍事力衰退を招くことになった。 ●松永久秀とは仲が悪かった[8]。 ●﹃戴恩記﹄では松永貞徳が俳句の世界で師匠にあたる九条稙通に聞いた言葉として、﹁婿の十川は武勇である﹂としてその武勇の高かったことを評したとしている[9]。家臣
十河氏の他に、三谷氏、窪氏、岡氏などがいる。多くは四国の国人・武士だが、松田守興は畿内で登用した[10]。脚注
(一)^ 場部隆弘﹁信長上洛前夜の畿内情勢﹂︵﹃日本歴史﹄平成21年9月号︶より。永禄九年︵1566年︶7月の﹁九条家文書﹂に和泉守護代として名が見られる。
(二)^ ab﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀196頁。
(三)^ 没日は墓所等によると4月23日とされている。﹃伊勢貞助記﹄では5月1日には死去のため出仕なし﹂とあるため、それ以前には死去していたようである。﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀198頁。
(四)^ ﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀197頁 - 198頁。
(五)^ ﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀198頁
(六)^ 今谷・228頁
(七)^ ︵﹃平島殿先祖並細川家三好家覚書﹄﹃阿州古戦記﹄︶﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀197頁。
(八)^ ﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀230頁。
(九)^ ﹃三好長慶﹄︿人物叢書﹀197頁。
(十)^ 天野(2014)・147-148頁