「原敬」を編集中
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'''原 敬'''(はら たかし、[[1856年]][[3月15日]] |
'''原 敬'''(はら たかし、[[1856年]][[3月15日]]([[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]])- [[1921年]]([[大正]]10年)[[11月4日]])は、[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。 |
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[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。[[幼名]]は'''健次郎'''(けんじろう)。[[雅号|号]]は'''一山'''、'''逸山'''(いつざん)。「'''はら けい'''」と[[音読み]]が用いられる場合もある(原敬記念館、『原敬日記』など)。 |
[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。[[幼名]]は'''健次郎'''(けんじろう)。[[雅号|号]]は'''一山'''、'''逸山'''(いつざん)。「'''はら けい'''」と[[音読み]]が用いられる場合もある(原敬記念館、『原敬日記』など)。 |
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[[外務次官]]、[[大阪毎日新聞社]][[社長]]、[[立憲政友会]][[幹事長]]、[[逓信大臣]]︵第[[第4次伊藤内閣|11]]・[[第1次西園寺内閣|16]]代︶、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]︵第[[第1次西園寺内閣|25]]・[[第2次西園寺内閣|27]]・[[第1次山本内閣|29]]代︶、立憲政友会[[総裁]]︵第3代︶、[[内閣総理大臣]]︵[[原内閣|第19代]]︶、[[司法大臣]]︵[[原内閣|第22代]]︶などを歴任した。
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[[外務次官]]、[[大阪毎日新聞社]][[社長]]、[[立憲政友会]][[幹事長]]、[[逓信大臣]]︵第[[第4次伊藤内閣|11]]・[[第1次西園寺内閣|16]]代︶、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]︵第[[第1次西園寺内閣|25]]・[[第2次西園寺内閣|27]]・[[第1次山本内閣|29]]代︶、立憲政友会[[総裁]]︵第3代︶、[[内閣総理大臣]]︵[[原内閣|第19代]]︶、[[司法大臣]]︵[[原内閣|第22代]]︶などを歴任した。
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[[郵便報知新聞]] |
『[[郵便報知新聞]]』記者を経て[[外務省]]に入省<ref>[http://www.haratakashi.jp/hara/index.html#nenpu 【原 敬 略年譜】]財団法人 大慈会 原敬遺徳顕彰事業団公式サイト参照</ref>。後に[[農商務省 (日本)|農商務省]]に移って[[陸奥宗光]]や[[井上馨]]からの信頼を得た。[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]時代には外務官僚として重用されたが退官。[[立憲政友会]]の発足に参加して政界に進出。[[1918年]](大正7年)に総理大臣に就任。[[平民]]であり<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698 朝日日本歴史人物事典「原敬」の解説 コトバンク]</ref>、[[爵位]]をもたなかったことから「'''平民[[宰相]]'''(へいみんさいしょう)」と渾名された<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E6%95%AC-14698#E6.97.BA.E6.96.87.E7.A4.BE.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.8F.B2.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E4.B8.89.E8.A8.82.E7.89.88 旺文社日本史事典 三訂版「原敬」の解説 コトバンク]</ref>。[[1921年]](大正10年)[[11月4日]]、[[東京駅]]で[[暗殺]]された([[原敬暗殺事件]])。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[ファイル:Birthhouse of Hara Kei (Prime Minister Takashi Hara).jpg|thumb|生家(岩手県盛岡市)]] |
[[ファイル:Birthhouse of Hara Kei (Prime Minister Takashi Hara).jpg|thumb|生家(岩手県盛岡市)]] |
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原家は[[近江国|近江]][[浅井氏]]の流れを汲み、江戸期に入ってから[[南部氏]]に仕えた家系である{{sfn|清水唯一朗|2021|p=5}}。祖父の原直記は[[盛岡藩]]家老、父の原直治は盛岡藩[[側用人]]を務めた<ref name=":0">[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]﹁原敬﹂</ref>。原家の禄高は、父の原直治が家督を相続した時点で227石<ref name=":0" />。[[1856年]][[3月15日]]︵[[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]︶に父直治42歳・母リツ32歳の子として生まれ、健次郎と名付けられた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=5}}。慶応元年︵[[1865年]]︶に直治が没し、家督を継いでいた兄平太郎はわずか12歳であった上に、[[戊辰戦争]]以降の盛岡藩の苦境もあり家禄が10分の1まで減らされたため、生活は一気に苦しくなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=5-8}}。リツは菓子商売などで生計を立てることになった。原の上京費用もこうして捻出したという。
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明治3年︵[[1870年]]︶1月、盛岡藩の[[藩校]]﹁[[作人館]]﹂に入った。翌年12月には上京し、[[那珂梧楼]]の私塾を経て旧藩主{{efn|盛岡藩は、7月に他藩に先駆け廃藩となっている。}}南部氏が運営する共慣義塾に入学したが長く続かず、旧[[会津藩]]士[[岸俊雄]]の私塾苟新塾に移った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=9}}。しかし盛岡の家が盗難にあい、学費に困った原は明治5年︵1872年︶7月に一旦郷里に戻った。この際兄弟全員が改名し、健次郎も﹁敬﹂とあらためた。これは﹃[[近思録]]﹄からとったもので、自ら選んだものであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=9-10}}。9月には[[海軍兵学寮]]を受験するが失敗し、冬にはフランス人宣教師が運営する食費と宿泊費が無料の[[ラテン学校]]に移った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=11}}。翌明治6年︵1873年︶4月には[[洗礼|受洗]]し、﹁ダビデ﹂の洗礼名を受けた。また横浜で活動していた[[フェリクス・エヴラール]]神父のもとに居を移し、互いに漢書やキリスト教書を教えあった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=11}}。翌年から布教活動に加わり、1年間新潟に滞在した{{Sfn|楠|2000|pp=137-139}}。
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1875年︵明治8年︶5月、エヴラールと別れて原は盛岡に戻った。当時原家は家禄を奉還し、その際に受けた一時金をもとに養蚕を手掛け、再び原を遊学させる余裕が生まれていた。再度の上京に伴い、原は分家して戸主となり、平民籍に編入された。原は﹁分家帰商﹂{{efn|分籍した際の[[戸籍謄本]]が記念館に保存されており、そこには︵[[士族]]ではなく︶[[士農工商]]の﹁商﹂と記載されている<ref name="asahi20181205">山下剛﹁︻わがまちお宝館︼原敬記念館︵盛岡市︶わんこそば﹁原さん﹂が?﹂﹃朝日新聞﹄朝刊 2018年12月5日︵第2東京面︶。</ref>。}}と手記に残し、後年にも宿帳に﹁岩手県平民﹂と大書して悦に入っていたというが{{sfn|清水唯一朗|2021|p=13}}、分家の理由は明確にされておらず、原の嗣子原貢は養子縁組を断るため、[[前田蓮山]]は戸主となれば徴兵を逃れられるからではないかとしている{{Sfn|楠|2000|pp=135-136}}。なお、分家するにしても、あえて平民を選んだ理由が明確ではないとの研究もあるが{{sfn|清水唯一朗|2021|p=13}}、原の分家の前年に、華族・士族の家から分家した者は平民籍に編入されるルールが確立していたと指摘されている<ref>古川亮平﹁近代日本における旧身分意識と族称 -士族・平民の廃止について-﹂︵駿台史學174号139頁︶・142頁.</ref>。
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=== メディアの記者に === |
=== メディアの記者に === |
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再度上京した原は[[箕作秋坪]]の英学塾[[三叉学舎]]で学び、[[1876年]]︵明治9年︶、[[司法省法学校]]を受験し、2番 |
再度上京した原は[[箕作秋坪]]の英学塾[[三叉学舎]]で学び、[[1876年]]︵明治9年︶、[[司法省法学校]]を受験し、受験者中2番の成績で合格した。在学中も101名中10位と成績は良かったが、1879年︵明治12年︶2月に[[退学|放校処分]]に遭っている。寄宿舎の待遇改善を求めた行動に対する処分に抗議したこと︵[[賄征伐]]︶が理由とされている{{Sfn|楠|2000|pp=139-140}}{{sfn|清水唯一朗|2021|p=20}}。同時に放校されたメンバーの[[陸羯南]]・[[福本日南]]らとともしばらくは自堕落な生活を送っていたものの、[[中江兆民]]の[[仏学塾]]で[[フランス語]]を学びつつ、民権派の新聞﹃[[峡中新報]]﹄に﹁鷲山樵夫﹂の筆名で寄稿することで生計を立てるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=22-23}}。
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11月、原は[[郵便報知新聞社]]に入社した。入社当初は翻訳を担当していたが、1880年︵明治13年︶ごろからは論説記事も手掛けるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=25}}。原の主張は漸進的な民権拡張を求める官民調和論であり、急進的な民権論には批判的な、[[福沢諭吉]]系の言論人であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=25}}。1881年︵明治14年︶5月には官僚の[[渡辺洪基]]が全国周遊旅行に出ることなり、原は同行を強く要望して随行することになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=26}}。この133日間の遊説旅行の中で原は地方の政治・産業の実態を観察することとなり、その模様を新聞に連載した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=26}}。しかし[[明治十四年の政変]]で[[大隈重信]]派が政府を離脱し、福沢の政府への影響力も大きく減退したことで、原の主張も次第に変化を見せ始めることとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=26}}。そんな中で大隈派が郵便報知新聞社を買収、[[矢野龍渓|矢野文雄]]を社長に据え、[[犬養毅]]・[[尾崎行雄]]らが社に乗り込んできた。原の上司であった[[栗本鋤雲]]も退社し、居場所をなくした原は、1882年︵明治15年︶1月26日に退社を紙上で宣言し、会社を去った{{Sfn|楠|2000|pp=140-142}}{{sfn|清水唯一朗|2021|p=30}}。
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退社後は |
退社後の原に目をつけたのは[[井上馨]]であった。井上は大阪で政府系の広報を強めるべきと考えており、そのための人材として適任と思われたのが原であった。原は4月24日に発刊された大阪の政府系紙﹃[[大東日報]]﹄の主筆に就任して一躍高給を得ることとなり、大阪財界とも強いパイプを持つようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=32-33}}。またこの直前に発足した[[立憲帝政党]]にも入党している{{sfn|清水唯一朗|2021|p=33}}。しかし10月には路線を巡って原と幹部が対立し、7か月で﹃大東日報﹄を離れることになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=33-34}}{{Sfn|楠|2000|pp=142-143}}。
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=== 外交官・官僚 === |
=== 外交官・官僚 === |
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[[ファイル:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原]] |
[[ファイル:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原]] |
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帰京した原 |
10月末に帰京した原であったが、2週間後には旧友[[渡辺修一郎]]の紹介で[[外務省]]御用掛として官僚の道を歩むこととなる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=36-37}}。当時外務省では[[フランス語]]を使える人材が不足しており、外務卿の井上馨にとっても原は貴重な人材であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=36-37}}。1883年︵明治16年︶7月には[[太政官]]文書局の勤務を兼職し、[[官報]]の創設に携わるようになる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=38-40}}。また民権派が優勢であった地方への政府巡回員の派遣を提案して認められ、10月から[[中国地方]]・[[西海道]]への巡察を行った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=41}}。
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しかし |
しかし11月になると[[フランス]]と[[清]]の関係が悪化し、情報収集のため呼び戻された原は[[天津]]総領事として中国に派遣された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=41}}。この際には薩摩出身の[[工部省]]大書記官[[中井弘]]の娘貞子と結婚し、[[藩閥]]グループの一員として迎えられることとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=42}}。原は1884年︵明治17年︶に発生した[[清仏戦争]]に関する情報を多数報告し、その高い能力を示した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=46}}。1885年︵明治18年︶には[[甲申政変]]の影響で悪化した日清関係の修復のため、[[伊藤博文]]と[[李鴻章]]の交渉が天津で行われることとなった。この[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]締結交渉の中で原は伊藤の高い外交的技量に感銘を受け、また伊藤も原の高い情報収集・分析能力を認めることとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=47}}。
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伊藤の帰国後まもなく原も帰国を命じられ、[[パリ]]公使館の書記官への就任を命じられた。1886年︵明治19年︶1月13日にパリに赴任したが、語学力の低さを認識していた原は1年間を勉強期間として公務を抑えるよう要望して認められた。しかし駐仏公使の[[蜂須賀茂韶]]はフランスのほか4カ国の公使を兼摂して極めて多忙であったため、原は事務作業のほか公使代理としても活動せざるを得なかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=50}}。明治20年︵1887年︶には事務能力が高い[[田中不二麿]]公使が着任し、兼摂国も2カ国となったため、原の負担は大きく軽減された。余裕ができた原は[[パリ政治学院]]の科目履修生として[[国際公法]]を学び、フランスに呼び寄せた妻の貞子との旅行に出かけることもできるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=53}}。
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1889年︵明治22年︶4月、帰国した原は[[農商務省 (日本)|農商務省]]参事官となった。これは外務大臣の大隈重信が原を嫌っており、農商務大臣となった井上馨が引き取ったためである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=56}}。しかし農商務省の有力官僚であった[[前田正名]]と対立し、思うように活動を行うことはできなかった。1890年︵明治23年︶5月、[[陸奥宗光]]が新たな農商務大臣となり、大臣秘書官兼参事官となった原と協力して前田派の一掃にかかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=59}}。また[[狩猟規則]]の制定、[[富岡製糸場]]の払い下げなどに関わっている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=59}}。1892年︵明治25年︶、陸奥が大臣を辞職すると、原もこれに従って辞職した。外務省や農商務省はポストを示して引き止めたものの、当時伊藤が政党結成のために動いており、原は陸奥がその中心人物となると見ていたためであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=62-63}}。7月に[[第2次伊藤内閣]]が成立し、陸奥が外務大臣になると原は通商局長として外務省に復帰した。原は[[領事裁判権]]の撤廃や外務省改革に従事し、外務省の機構改革と[[外交官試験]]の導入を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=64-70}}。
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1895年︵明治28年︶には外務次官となり、病気で体調を崩していた陸奥に代わって事実上の外相として活動したが、たびたび高熱を発して病床についた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=72}}。1896年︵明治29年︶6月には陸奥の辞職が認められ、原は駐朝鮮公使となった。しかし10月に[[第2次松方内閣]]が成立し、大隈重信が外務大臣となったため、方針が合わない原は辞職を決意して帰国、1897年︵明治30年︶2月23日に正式に後任が決まって離職した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=75-76}}。また1896年︵明治29年︶11月には妻貞子の不貞が発覚し、別居。盛岡から上京してきた母のリツ、姪の栄、妾の菅野浅と同居するようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=77-78}}。
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[[1892年]](明治25年)3月、陸奥の大臣辞職に伴い、原も依願辞職する<ref>『官報』1892年3月15日「叙任及辞令」。</ref>。外務省や農商務省による慰留も固辞した理由は、当時伊藤が政党結成のために動いており、原は陸奥がその中心人物となると見ていたためである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=62-63}}。果たして7月に[[第2次伊藤内閣]]が成立、陸奥が外務大臣に就任すると原は通商局長として外務省に復帰する<ref>『官報』1892年8月16日「叙任及辞令」。</ref>。大臣官房移民課長兼勤・省令審査委員<ref>『官報』1892年8月17日「叙任及辞令」。</ref>、さらに外務省取調局長を兼任し<ref>『官報』1892年9月8日「叙任及辞令」。</ref>、[[領事裁判権]]の撤廃や外務省改革に従事、同省機構改革と[[外交官試験]]の導入を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=64-70}}。 |
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明治28年8月、原は﹃[[大阪毎日新聞]]﹄の編集総理︵編集長︶として招聘され、年俸5000円という破格の待遇で編集長を務めることとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=79-81}}。原は一食15銭の牛肉弁当を食べて毎日遅くまで働き、﹁ウシベン﹂という渾名で呼ばれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=81}}。1898年︵明治31年︶9月には社長に就任、速報性より正確性を重視した原体制の下で、年2000万部程度であった同紙は一年で年900万部ほど部数を伸ばし、最終的には3倍の部数となった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=81-82、90}}。一方で中央政界復帰を忘れてはおらず、毎月のように上京しては政界要人と連絡を取っていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=83}}。
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=== 伊藤総裁下の政友会 === |
=== 伊藤総裁下の政友会 === |
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1898年︵明治31年︶6月、伊藤は首相を辞任し、政府与党となる政党結成に向けて準備を進めていた。原は伊藤とは疎遠になっており、むしろ[[山縣有朋]]とよく会っていた。しかし官界・財界関係の両者にパイプを持つ原を井上馨が重視し、また[[西園寺公望]]とも親しかったことで、原は伊藤の新党結成の事務作業をほとんど手掛けるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=87-88}}。
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1900年︵明治33年︶5月、[[立憲政友会]]が成立したが、原の名前は公表された創立委員の名前になかった。これは大阪毎日新聞の社長を辞任するにあたって、後継とされた大隈系の矢野文雄に原が不満を示し、その案を撤回させるまで社長の座にとどまったためである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=89-90}}。10月には[[第4次伊藤内閣]]が成立したが、入閣を期待していた原は閣僚に選ばれず、伊藤を﹁意志薄弱﹂と非難している{{sfn|清水唯一朗|2021|p=87-88}}。原は大阪毎日新聞の社長辞任と同時に政友会の総務委員に任じるよう要求し、受け入れられなければこれを公表すると西園寺に迫り、12月19日に総務委員兼幹事長に任じられた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=93}}。
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12月21日、原は[[星亨]]の辞職に伴い逓信大臣に任じられた。原は[[鉄道敷設法]]の改正に取り組んだが、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の抵抗により法案提出を断念した。また財政健全化を主張する[[渡辺国武]]大蔵大臣と対立し、1901年︵明治34年︶5月には伊藤首相と渡辺蔵相が辞職した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=96-97}}。内閣は崩壊したが、渡辺と正面から衝突したことは、原の名声を高めることにつながっている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=97}}。
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[[1901年]](明治34年)6月、[[桂太郎]]が政権を握って組閣し([[第1次桂内閣]])、政友会は野党となった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。原は政友会立て直しのために奔走し、伊藤を説得して総裁の座にとどめた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。また総務委員のうち5名を常務員とするなどの改革を行い、自らもそのメンバーとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。しかし6月21日に星亨が暗殺され、さらに伊藤が洋行するなど、大きな柱を失った政友会は動揺していた。その状況で[[松田正久]]・[[尾崎行雄]]が桂との取引に失敗して威信を失うなど危機を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=102}}。 |
[[1901年]](明治34年)6月、[[桂太郎]]が政権を握って組閣し([[第1次桂内閣]])、政友会は野党となった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。原は政友会立て直しのために奔走し、伊藤を説得して総裁の座にとどめた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。また総務委員のうち5名を常務員とするなどの改革を行い、自らもそのメンバーとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。しかし6月21日に星亨が暗殺され、さらに伊藤が洋行するなど、大きな柱を失った政友会は動揺していた。その状況で[[松田正久]]・[[尾崎行雄]]が桂との取引に失敗して威信を失うなど危機を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=102}}。 |
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[[1902年]]︵明治35年︶の[[第7回衆議院議員総選挙]]では、[[盛岡市]]から出馬し、前市長の[[清岡等]]を抑えて初当選した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=105-108}}。原が盛岡で支持を広げた要因として、しばしば盛岡につながる鉄道線の問題があると指摘される{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。一方で、原自身は選挙戦の中で地元への[[利益誘導]]に言及することには消極的であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。[[1903年]] |
[[1902年]]︵明治35年︶の[[第7回衆議院議員総選挙]]では、[[盛岡市]]から出馬し、前市長の[[清岡等]]を抑えて初当選した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=105-108}}。原が盛岡で支持を広げた要因として、しばしば盛岡につながる鉄道線の問題があると指摘される{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。一方で、原自身は選挙戦の中で地元への[[利益誘導]]に言及することには消極的であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。明治36年︵[[1903年]]︶の[[第8回衆議院議員総選挙]]では全市が一致して原を支援する決定が行われ、以降7回の総選挙でほぼ無投票当選を続けることとなる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=114}}。しかし政友会内部では伊藤と党人派の対立が激化し、原と松田は伊藤を支えつつ党の分裂を防ぐために苦慮していたが、逆に疑心暗鬼となった伊藤から辞職勧告を突きつけられる有様であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=117}}。7月に伊藤は[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に任ぜられ、西園寺を後継総裁に指名して党を去った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=126-129}}。
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=== 第1次西園寺内閣 === |
=== 第1次西園寺内閣 === |
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=== 大正政変と山本権兵衛内閣 === |
=== 大正政変と山本権兵衛内閣 === |
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{{See also|大正政変|第1次山本内閣}} |
{{See also|大正政変|第1次山本内閣}} |
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1912年︵大正元年︶12月21日、[[第3次桂内閣]]が成立した。しかし桂の思惑とは違い、桂を﹁閥族﹂山縣の手先と見ていた世論の大きな反発を受けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=172}}。桂は自分を支持する政党が必要であると考え、新党設立の準備と政友会の切り崩しを図った。しかし新党[[立憲同志会|同志会]]には100名に満たない議員しか集まらず、政友会を始めとする[[護憲運動]]に対抗するため、桂は大正天皇に頼った。 |
1912年︵大正元年︶12月21日、[[第3次桂内閣]]が成立した。しかし桂の思惑とは違い、桂を﹁閥族﹂山縣の手先と見ていた世論の大きな反発を受けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=172}}。桂は自分を支持する政党が必要であると考え、新党設立の準備と政友会の切り崩しを図った。しかし新党[[立憲同志会|同志会]]には100名に満たない議員しか集まらず、政友会を始めとする[[護憲運動]]に対抗するため、桂は大正天皇に頼った。1913年︵大正2年︶2月9日、大正天皇は西園寺に対し、事態の収拾を求める[[勅語]]を発した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174}}。西園寺は勅語には従わざるを得ないとしたものの、党員に対しては行動の自由を与えた。原と松田は勅語に従う方針を立てていたが、尾崎行雄を中心とする桂内閣打倒の動きは止められなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174-175}}。2月11日に内乱を恐れた桂は総辞職を決断したが、西園寺が勅語に違背したとして謹慎したため、政友会内閣の成立は困難であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=175}}。西園寺と薩摩閥は[[薩摩藩]]出身の大物[[海軍大将]][[山本権兵衛]]の擁立を提案し、山縣もそれを受け入れた。山本は原と松田を入閣させて政友会の支持をとりつけようとしたが、原は首相・外相・陸海相以外の閣僚を政友会に入党させるという条件を出した。これにより[[高橋是清]]・[[奥田義人]]・山本達雄といった閣僚が入党し、党人からは原が内務大臣、松田が[[司法大臣]]、[[元田肇]]が逓信大臣として入閣する[[第1次山本内閣]]が成立した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=176-177}}。しかしこれを薩摩閥との妥協と見た尾崎らは離党し、原に対する批判も高まった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。原の自宅には100人近い群衆が集まり、政友会の[[壮士]]とにらみ合いとなる事件も起きた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。
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山本内閣は﹁閥族﹂の影響力を削ぐ政策を実行することで、世論からの支持を回復しようとした。6月には[[軍部大臣現役武官制]]を改正し、予備役でも軍部大臣に任用できるようにした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=179}}。また8月1日には[[文官任用令]]を改正し、大卒者の[[文官高等試験]]免除、次官の資格制限免除を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。原は当初次官のほか局長・知事の資格制限も免除するよう求めていたが、枢密院の反対のため、次官のみに絞った。しかし枢密院の[[伊東巳代治]]はこれをも撤回させようとしたため、原が新聞にリークし、また山本首相が強く要請したため枢密院側が折れたものである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。山本首相の政治力によって、懸案であった行政改革が進んだことで山本内閣は世論の支持を回復した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=183-185}}。また官僚界からも政友会に対する支持が高まり、[[床次竹二郎]]・[[水野錬太郎]]・[[安楽兼道]]・[[岡喜七郎]]といった高級官僚が現職のまま政友会に入党し、官界にも政党の影響力が強まっていった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=184}}。
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山本内閣は﹁閥族﹂の影響力を削ぐ政策を実行することで、世論からの支持を回復しようとした。6月には[[軍部大臣現役武官制]]を改正し、予備役でも軍部大臣に任用できるようにした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=179}}。また8月1日には[[文官任用令]]を改正し、大卒者の[[文官高等試験]]免除、次官の資格制限免除を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。原は当初次官のほか局長・知事の資格制限も免除するよう求めていたが、枢密院の反対のため、次官のみに絞った。しかし枢密院の[[伊東巳代治]]はこれをも撤回させようとしたため、原が新聞にリークし、また山本首相が強く要請したため枢密院側が折れたものである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。山本首相の政治力によって、懸案であった行政改革が進んだことで山本内閣は世論の支持を回復した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=183-185}}。また官僚界からも政友会に対する支持が高まり、[[床次竹二郎]]・[[水野錬太郎]]・[[安楽兼道]]・[[岡喜七郎]]といった高級官僚が現職のまま政友会に入党し、官界にも政党の影響力が強まっていった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=184}}。
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一方で西園寺は政友会の後継総裁を原にするべく準備を進めていたが、大正政変で人気を落とした原は、一旦松田に総裁を務めさせるよう進言していた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=185}}。原と松田は閣僚を辞して党務に専念したい意向を山本首相に伝えていたが、山本は強く慰留した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。また原は松田と同時に辞職することを望んでいたが、松田が胃がんとなり、松田夫人が現職のまま死なせたいと望んでいたこともあり、二人は内閣にとどまり続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。しかし |
一方で西園寺は政友会の後継総裁を原にするべく準備を進めていたが、大正政変で人気を落とした原は、一旦松田に総裁を務めさせるよう進言していた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=185}}。原と松田は閣僚を辞して党務に専念したい意向を山本首相に伝えていたが、山本は強く慰留した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。また原は松田と同時に辞職することを望んでいたが、松田が胃がんとなり、松田夫人が現職のまま死なせたいと望んでいたこともあり、二人は内閣にとどまり続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。しかし1914年︵大正3年︶に海軍軍人の贈収賄が発覚︵[[シーメンス事件]]︶、内閣は厳しい攻撃を受けることとなった。また新聞記者が政友会の壮士や警官に暴行を受けたと訴え出たが、原はこれらの事実関係を完全に否定し、謝罪を拒んだ{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。こうした原のはねつけるような答弁は野党の攻撃対象となり、自動車が群衆に襲撃されるなど、厳しい批判が起こるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。原は事態を収拾するため、山本首相を退陣させ、自ら組閣する計画を立てた。しかし元老山縣は山本首相の意見を聞かず、非政友会内閣の樹立を目指した。[[徳川家達]]・[[清浦奎吾]]といった候補者の内閣は成立せず、山縣と井上馨は大隈重信を奏薦した。大隈の与党は立憲同志会・[[中正会]]であり、政友会は野党としてこれに対峙することとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=192}}。
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総裁不在の中、原は衆目の一致する政友会の第一人者であったが、なおも強い反発が残っていた。原は西園寺からの後継指名も一旦断り、党幹部からの一致した支持を取り付け、十分に正当性を確保できる形で後継者としての立場を確保した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=196-197}}。6月18日、本部で開かれた臨時大会において、正式に第3代立憲政友会総裁に就任した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=197}}。
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総裁不在の中、原は衆目の一致する政友会の第一人者であったが、なおも強い反発が残っていた。原は西園寺からの後継指名も一旦断り、党幹部からの一致した支持を取り付け、十分に正当性を確保できる形で後継者としての立場を確保した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=196-197}}。6月18日、本部で開かれた臨時大会において、正式に第3代立憲政友会総裁に就任した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=197}}。
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大隈は新聞を利用し、元老との対決色を全面に押し出して人気を集めた。一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=198-199}}。しかし大隈が[[営業税]]廃止などの人気取り策に出たことと、元老に無断で[[第一次世界大戦]]への参戦を決めたことで、山縣・松方は大隈内閣批判の姿勢を鮮明にした。これを受けて原は山縣のもとに足繁く通うようになり、信頼関係の醸成に努めたが、大隈が二個師団増設の方針を決めたため、山縣と連携を取ることもできなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=200}}。
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大隈は新聞を利用し、元老との対決色を全面に押し出して人気を集めた。一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=198-199}}。しかし大隈が[[営業税]]廃止などの人気取り策に出たことと、元老に無断で[[第一次世界大戦]]への参戦を決めたことで、山縣・松方は大隈内閣批判の姿勢を鮮明にした。これを受けて原は山縣のもとに足繁く通うようになり、信頼関係の醸成に努めたが、大隈が二個師団増設の方針を決めたため、山縣と連携を取ることもできなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=200}}。
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1915年︵大正4年︶3月25日、[[第12回衆議院議員総選挙]]が行われた。大正政変以来政友会は地方で不人気であり、また井上が大隈支持を働きかけたことで地方財界も政府支持となったため、政友会は候補者擁立にも支障を来すようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=203}}。大隈は自ら全国に遊説旅行にでかけ、閣員も総動員した大規模な選挙活動を行った。これに対して原は本部にこもりきりであり、対抗できる政策も打ち出せなかったため、十分な支持拡大ができなかった。これに加えて[[大浦兼武]]内務大臣による強力な選挙干渉が行われた。選挙で政友会は選挙前の184議席から106議席と大きく議席を減らし、大物幹部も落選するという大敗を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=205}}。政友会内部では選挙の敗因は大浦内相による選挙干渉であるという認識が強く、原の責任問題とはならなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206}}。原は若手の議員を幹事に登用し、また官僚出身の議員を政務調査会に入れ、[[シンクタンク]]である政務調査室を設置することで政策提言能力を高めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。また6月の議会では[[立憲自由党]]系の政党総裁として初めて演壇に立ち、立憲同志会総理である[[加藤高明]]外相と激しい論戦を繰り広げた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=209}}。
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大隈内閣は大正天皇の即位礼が終わった後に退陣するという合意を元老側と行っていたが、世界大戦と中国情勢を理由に存続を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=213}}。 |
大隈内閣は大正天皇の即位礼が終わった後に退陣するという合意を元老側と行っていたが、世界大戦と中国情勢を理由に存続を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=213}}。1916年︵大正5年︶になると後継首相の座を巡って暗闘が続いた。原は内閣が存続すればするほど大隈らの人気が下がることを見越し、待ちの姿勢を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。
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=== 寺内内閣 === |
=== 寺内内閣 === |
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{{See also|寺内内閣}} |
{{See also|寺内内閣}} |
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1916年︵大正5年︶10月9日、山縣の奏薦で寺内正毅が首相となり、[[寺内内閣]]が成立した。山縣は寺内を同志会と連携させるつもりであった。しかし寺内は戦時であるため挙国一致内閣をとるべきであると主張し、同志会との連携を断った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=215}}。また政党員の入閣は山縣らによって阻止されたため、内閣は[[超然主義]]の非立憲内閣として世論から糾弾された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=217-218}}。また同志会は非政友会系の諸派と連合して[[憲政会]]を設立し、議会の最大勢力として政府を攻撃した。内務大臣の[[後藤新平]]は政友会の助力を得るため、政友会党員であった水野錬太郎を次官とし、実質的な内務大臣とした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=219}}。選挙管理を行う内務省が実質的に政友会の影響下にあることで、原は解散総選挙を急ぐこととなった。また寺内内閣も憲政会の削減を目標とし、憲政会への攻撃と政友会・[[立憲国民党]]への援助を行った。国民党は政府からの資金援助を受けたが、原はこれを断っている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=222-223}}。 |
1916年︵大正5年︶10月9日、山縣の奏薦で寺内正毅が首相となり、[[寺内内閣]]が成立した。山縣は寺内を同志会と連携させるつもりであった。しかし寺内は戦時であるため挙国一致内閣をとるべきであると主張し、同志会との連携を断った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=215}}。また政党員の入閣は山縣らによって阻止されたため、内閣は[[超然主義]]の非立憲内閣として世論から糾弾された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=217-218}}。また同志会は非政友会系の諸派と連合して[[憲政会]]を設立し、議会の最大勢力として政府を攻撃した。内務大臣の[[後藤新平]]は政友会の助力を得るため、政友会党員であった水野錬太郎を次官とし、実質的な内務大臣とした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=219}}。選挙管理を行う内務省が実質的に政友会の影響下にあることで、原は解散総選挙を急ぐこととなった。また寺内内閣も憲政会の削減を目標とし、憲政会への攻撃と政友会・[[立憲国民党]]への援助を行った。国民党は政府からの資金援助を受けたが、原はこれを断っている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=222-223}}。1918年︵大正7年︶4月20日の[[第13回衆議院議員総選挙]]で、政友会は過半数には及ばなかったものの163議席を獲得、対する憲政会は大敗した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=223}}。
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原は議会でも是々非々の対応を取り、義務教育費の国庫補助など政友会の政策を実現していった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226}}。また7月16日には[[外交調査会]]が設置され、政党指導者である原と国民党の[[犬養毅]]もメンバーとなった。原は大陸に対する積極関与や[[シベリア出兵]]には反対であったが、独断で英仏に出兵を約束した[[本野一郎]]外相には辞任を求めず、米英仏との関係を維持するよう求めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226-227}}。
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原は議会でも是々非々の対応を取り、義務教育費の国庫補助など政友会の政策を実現していった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226}}。また7月16日には[[外交調査会]]が設置され、政党指導者である原と国民党の[[犬養毅]]もメンバーとなった。原は大陸に対する積極関与や[[シベリア出兵]]には反対であったが、独断で英仏に出兵を約束した[[本野一郎]]外相には辞任を求めず、米英仏との関係を維持するよう求めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226-227}}。
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==== 教育政策 ==== |
==== 教育政策 ==== |
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第41議会前に[[大学令]]と[[高等学校令]]を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより |
第41議会前に[[大学令]]と[[高等学校令]]を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより1919年︵大正8年︶2月には[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]、4月には[[明治大学]]、[[法政大学]]、[[中央大学]]、[[日本大学]]、[[國學院大學]]、[[同志社大学]]が専門学校から[[旧制大学]]への昇格が認可された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また議会では﹁高等諸学校創設及拡張計画﹂を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で[[旧制高等学校|高等学校]]10校、実業専門学校17校︵[[高等工業学校]]6校、官立[[高等農業学校]]4校、官立[[高等商業学校]]7校︶、専門学校2校︵[[外国語学校 (旧制)|外国語学校]]、[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]]︶が新設され、5万人の進学の道が開かれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また大戦で莫大な利益を得ていた実業界からの拠出も求め、イメージの改善を狙った財閥や企業はこれに応じている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247-248}}。また浪費が多いと非難されていた皇室からの拠出も求めている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=248}}。
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==== 交通政策 ==== |
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10月19日、養子としていた貢がイギリス留学のために出国、原夫妻はこれを見送った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。原はワシントン会議の成功と裕仁親王の摂政就任までは内閣を継続するつもりであり、各地の党大会に出向いて党内の引き締めにあたっていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。
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10月19日、養子としていた貢がイギリス留学のために出国、原夫妻はこれを見送った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。原はワシントン会議の成功と裕仁親王の摂政就任までは内閣を継続するつもりであり、各地の党大会に出向いて党内の引き締めにあたっていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。
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[[1921年]]︵大正10年︶11月4日、原は妻の勧めるコートを着ずに家を出て、閣議のあと大正天皇・貞明皇后に拝謁、菊の鉢植えを下賜された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。午後7時、大阪で開かれる関西政友会大会に出席するため側近の[[肥田琢司]]らと[[東京駅]]に到着した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。駅長室から乗車口に歩き出たところ、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]転轍手であった[[中岡艮一]]に心臓を刺され、死亡した。ほぼ即死であったとされる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。[[享年]] |
[[1921年]]︵大正10年︶11月4日、原は妻の勧めるコートを着ずに家を出て、閣議のあと大正天皇・貞明皇后に拝謁、菊の鉢植えを下賜された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。午後7時、大阪で開かれる関西政友会大会に出席するため側近の[[肥田琢司]]らと[[東京駅]]に到着した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。駅長室から乗車口に歩き出たところ、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]転轍手であった[[中岡艮一]]に心臓を刺され、死亡した。ほぼ即死であったとされる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。[[享年]]66。満{{没年齢|1856|3|15|1921|11|4}}。遺体は政友会本部に運ぶこととされていたが、妻の浅はもう一個人であると応え、芝公園の自宅に連れ帰った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=295}}。
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原の死を知ったワシントン会議代表団は帰国も検討したが、加藤友三郎が押し留めた。また[[横田千之助]]は「この会議が失敗すれば世界は再び鉄火の洗礼を受ける」という原の言葉を伝えている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=297}}。元老山縣も大きく力を落とし、まもなくこの世を去った。一方強力な指導者であった原を失った政友会はまとまりを欠き、2年後に分裂した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=298}}。 |
原の死を知ったワシントン会議代表団は帰国も検討したが、加藤友三郎が押し留めた。また[[横田千之助]]は「この会議が失敗すれば世界は再び鉄火の洗礼を受ける」という原の言葉を伝えている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=297}}。元老山縣も大きく力を落とし、まもなくこの世を去った。一方強力な指導者であった原を失った政友会はまとまりを欠き、2年後に分裂した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=298}}。 |
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* {{Cite book|和書 |title=現行条約論 |date=1892-10 |publisher=阪上汎愛堂 |id={{全国書誌番号|40030941}} |ncid=BN08907892}} |
* {{Cite book|和書 |title=現行条約論 |date=1892-10 |publisher=阪上汎愛堂 |id={{全国書誌番号|40030941}} |ncid=BN08907892}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=万国公法会 |others=原敬訳註 |title=陸戦公法 |date=1894-08 |publisher=報行社 |id={{全国書誌番号|40031164}} |ncid=BA35301459}} |
* {{Cite book|和書 |editor=万国公法会 |others=原敬訳註 |title=陸戦公法 |date=1894-08 |publisher=報行社 |id={{全国書誌番号|40031164}} |ncid=BA35301459}} |
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* 『新条約実施準備』本編・補遺、[[大阪毎日新聞社]]、1898–1899年。 |
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* {{Cite book|和書 |title=外交官領事官制度 |date=1899-06 |publisher=[[警醒社]] |id={{全国書誌番号|40030919}} |ncid=BA50474485}} |
* {{Cite book|和書 |title=外交官領事官制度 |date=1899-06 |publisher=[[警醒社]] |id={{全国書誌番号|40030919}} |ncid=BA50474485}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=大阪毎日新聞社 |title=でたらめ |date=1899-08 |publisher=東枝律書房 |id={{全国書誌番号|41018444}} |ncid=BB13775843}} |
* {{Cite book|和書 |editor=大阪毎日新聞社 |title=でたらめ |date=1899-08 |publisher=東枝律書房 |id={{全国書誌番号|41018444}} |ncid=BB13775843}} |
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『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。 |
『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。 |
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『原敬日記』は、一般には[[1875年]] |
『原敬日記』は、一般には明治8年([[1875年]])に帰省した際の日記から、暗殺直前の大正10年([[1921年]])[[10月25日]]までに書かれた日記の総称であるが、原が暗殺を予期し認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命([[宮中某重大事件]]や[[大正天皇]]の病状問題の記述が考慮されると考えられる)した。 |
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実際に、初刊は没後30年近くを経た1950-51年に乾元社 |
実際に、初刊は没後30年近くを経た[[1950年]]-51年に乾元社(全9巻)。近年は原が[[大正天皇]]と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。 |
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* 『原敬日記』全6巻、[[林茂]]・原奎一郎編、[[福村出版]]、新版2000年 |
* 『原敬日記』(全6巻)、[[林茂]]・原奎一郎編、[[福村出版]]、新版2000年 |
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* 『原敬日記』全17巻、岩壁義光・[[広瀬順晧|廣瀬順晧]]編、北泉社、1998年 |
* 『原敬日記』(全17巻)、岩壁義光・[[広瀬順晧|廣瀬順晧]]編、北泉社、1998年 |
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* 栗田直樹『原敬日記を読む』[[成文堂]]、2018年 |
* 栗田直樹『原敬日記を読む』[[成文堂]]、2018年。解説本 |
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== 家族・親族 == |
== 家族・親族 == |
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== 栄典 == |
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* [[1890年]](明治23年)12月28日 - [[従六位]]<ref>『[[官報]]』[[号外]]「叙任及辞令」1890年12月28日。</ref> |
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* [[1891年]](明治24年)12月11日 - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref> |
* [[1891年]](明治24年)12月11日 - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref> |
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* [[1892年]](明治25年)9月26日 - [[従五位]]<ref>『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。</ref> |
* [[1892年]](明治25年)9月26日 - [[従五位]]<ref>『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。</ref> |
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* [[1893年]](明治26年)12月16日 - [[正五位]]<ref>『官報』1893年12月18日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1895年]](明治28年)6月29日 - [[従四位]]<ref>『官報』1895年7月1日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1897年]](明治30年)10月30日 - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref> |
* [[1897年]](明治30年)10月30日 - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref> |
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* [[1907年]](明治40年)10月11日 - [[従三位]]<ref>『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。</ref> |
* [[1907年]](明治40年)10月11日 - [[従三位]]<ref>『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。</ref> |
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* [[1921年]](大正10年)11月4日 - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref> |
* [[1921年]](大正10年)11月4日 - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref> |
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; 勲章 |
; 勲章 |
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* [[ |
* [[1893年]](明治26年)12月28日 - 勲五等[[瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。</ref> |
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* [[1893年]](明治26年)12月28日 - [[勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。</ref> |
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* [[1895年]](明治28年)6月21日 - [[勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』1895年6月22日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1896年]](明治29年)6月16日 - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref> |
* [[1896年]](明治29年)6月16日 - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref> |
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* [[1906年]](明治39年)4月1日 - [[勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』1907年9月23日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1914年]](大正3年)4月4日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref> |
* [[1914年]](大正3年)4月4日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref> |
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* [[1915年]](大正4年)11月10日 - 大礼[[記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref> |
* [[1915年]](大正4年)11月10日 - 大礼[[記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref> |
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* [[1920年]](大正9年)9月7日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref> |
* [[1920年]](大正9年)9月7日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref> |
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* [[1921年]](大正10年) |
* [[1921年]](大正10年) |
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** 7月1日 - 第一回国勢調査[[記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref> |
** [[7月1日]] - 第一回国勢調査[[記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref> |
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** 11月4日 - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="asert"/> |
** [[11月4日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="asert"/> |
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; 外国勲章佩用允許 |
; 外国勲章佩用允許 |
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* [[1888年]](明治21年)7月7日 - [[ベルギー |
* [[1888年]](明治21年)7月7日 - [[ベルギー]]王国:レオポール勲章コマンドール<ref>『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。</ref> |
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* [[1889年]](明治22年)5月14日 - [[フランス |
* [[1889年]](明治22年)5月14日 - [[フランス]]共和国:[[レジオンドヌール勲章]]オフィシエ<ref>『官報』第1764号「叙任及辞令」1889年5月20日。</ref> |
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* [[1896年]](明治29年) |
* [[1896年]](明治29年) |
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** 3月6日 - [[イタリア王国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。</ref> |
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** 3月17日 - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref> |
** 3月17日 - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref> |
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** 10月26日 - [[スペイン王国 |
** 10月26日 - [[スペイン]]王国:イザベルラカトリック第一等勲章<ref>『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。</ref> |
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⚫ | * [[1911年]](明治44年)[月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双竜宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref> |
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* [[1897年]](明治30年) |
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** 4月27日 - [[デンマーク王国]]:[[ダンネブロ勲章]]一級コンマンドール<ref>『官報』1897年5月3日「叙任及辞令」。</ref> |
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** 5月20日 - [[ドイツ帝国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1897年5月25日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1908年]](明治41年)2月26日 - [[大韓帝国]]:李花大勲章<ref>『官報』1908年2月29日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1911年]](明治44年)6月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双龍宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref> |
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* [[1919年]](大正8年)10月18日 - [[ギリシャ王国]]:救世主第一等勲章<small>([[:en:Order_of_the_Redeemer|英語]])</small><ref>『官報』1919年10月21日「叙任及辞令」。</ref> |
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* [[1920年]](大正9年)10月20日 - [[ルーマニア王国]]:ルーマニア星第一等勲章<small>([[:fr:Ordre_de_l'Étoile_de_Roumanie|仏語]])</small><ref>『官報』1920年10月25日「叙任及辞令」。</ref> |
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== 郷里での顕彰 == |
== 郷里での顕彰 == |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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;テレビドラマ |
;テレビドラマ |
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* 『[[平民宰相 原敬]]』 |
* 『[[平民宰相 原敬]]』(1965年・NHK、演:[[柳永二郎]]) |
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* 『[[熱い嵐]]』 |
* 『[[熱い嵐]]』(1979年・TBS、演:[[岡田英次]]) |
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* 『[[足尾から来た女]]』 |
* 『[[足尾から来た女]]』(2014年1月18日、1月25日・NHK、演:[[國村隼]]) |
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* 『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』 |
* 『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年・NHK、演:[[堀内正美]]) |
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* 『[[青天を衝け]]』 |
* 『[[青天を衝け]]』(2021年・[[NHK大河ドラマ]]、演:[[石丸謙二郎]]) |
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;漫画 |
;漫画 |
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* |
* 『[[昭和天皇物語]]』(2017年 - 、[[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載) |
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;小説 |
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* [[平谷美樹]]『[[国萌ゆる 小説 原敬]]』2021年(ISBN 978-4408537955) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 千葉勝「[https://hdl.handle.net/10129/3302 原敬と華族 : 南部家との関係を中心に]」『弘前大学國史研究』115号 p5.3-71 2003年, |
* 千葉勝「[https://hdl.handle.net/10129/3302 原敬と華族 : 南部家との関係を中心に]」『弘前大学國史研究』115号 p5.3-71 2003年, 弘前大学國史研究会, {{issn|0287-4318}} |
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* {{Cite book|和書|author=楠精一郎|authorlink=楠精一郎|title=列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで|publisher= |
* {{Cite book|和書|author=楠精一郎|authorlink=楠精一郎|title=列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで|publisher=朝日新聞社|series=朝日選書|year=2000|ref={{SfnRef|楠|2000}}}} |
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* [[伊藤之雄]]『元老 西園寺公望』 |
* [[伊藤之雄]]『元老 西園寺公望』[[文春新書]]、2007年 |
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* 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』[[中央公論新社]]〈 |
* 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』[[中央公論新社]]〈中公新書〉、2016年 |
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* {{Cite book|和書 |
* {{Cite book|和書|title=原敬-「平民宰相」の虚像と実像|series=中公新書, 2660|publisher=中央公論新社|date=2021-09-17|isbn=978-4121026606|author=清水唯一朗|authorlink=清水唯一朗|ref=harv}} |
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=== 関連文献 === |
=== 関連文献 === |
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* [[原奎一郎]]『ふだん着の原敬』[[毎日新聞社]]、1971年/[[中公文庫]]、2011年 |
* [[原奎一郎]]『ふだん着の原敬』[[毎日新聞社]]、1971年/[[中公文庫]]、2011年<br /> 甥で[[養子縁組|養子]](本名は原貢、原圭一郎とも表記)の回想録、一個人としての原敬の実像を知る最適の文献。原敬とその妻浅子と生活した青少年期の思い出を中心に綴られている。 |
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* 原敬遺徳顕彰会『原敬 歿後五十年 その生涯』 [[毎日新聞]]社、1970年 |
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::甥で[[養子縁組|養子]](本名は原貢、原圭一郎とも表記)の回想録、一個人としての原敬の実像を知る最適の文献。原敬とその妻浅子と生活した青少年期の思い出を中心に綴られている。 |
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* 原敬遺徳顕彰会 |
* 『原敬』(上・下)、原奎一郎編著、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年、新編抄版・1巻、2002年 |
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⚫ | |||
* 原奎一郎編著『原敬』(上・下)、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年(新編抄版・1巻、2002年) |
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⚫ | |||
* [[前田蓮山]]『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]]、新版1985年。元版1958年 |
* [[前田蓮山]]『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]]、新版1985年。元版1958年 |
||
* [[テツオ・ナジタ]]『原敬 政治技術の巨匠』安田志郎訳、[[読売新聞]]社〈読売選書〉、1974年 |
* [[テツオ・ナジタ]]『原敬 政治技術の巨匠』安田志郎訳、[[読売新聞]]社〈読売選書〉、1974年 |
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* 原奎一郎 |
* 原奎一郎、山本四郎編『原敬をめぐる人びと』[[NHK出版|日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、1981年 |
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* 原奎一郎 |
* 原奎一郎、山本四郎編『続 原敬をめぐる人びと』NHKブックス、1982年 |
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* [[高橋文彦]]『原敬 颯爽と清廉に』(上・下) 、[[原書房]]、1992年 |
* [[高橋文彦]]『原敬 颯爽と清廉に』(上・下) 、[[原書房]]、1992年 |
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* [[山本四郎]]『評伝 原敬(上・下)、[[東京創元社]]、1997年 |
* [[山本四郎]]『評伝 原敬』(上・下)、[[東京創元社]]、1997年 |
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* [[川田稔]]『原敬と[[山縣有朋|山県有朋]] 国家構想をめぐる外交と内政』中公新書、1998年 |
* [[川田稔]]『原敬と[[山縣有朋|山県有朋]] 国家構想をめぐる外交と内政』[[中公新書]]、1998年 |
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* [[玉井清]]『原敬と[[立憲政友会]]』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年 |
* [[玉井清]]『原敬と[[立憲政友会]]』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年 |
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* [[松本健一]]『原敬の大正』毎日新聞社、2013年 |
* [[松本健一]]『原敬の大正』[[毎日新聞]]社、2013年 |
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* [[福田和也]]『大宰相 原敬』[[PHP研究所]]、2013年 |
* [[福田和也]]『大宰相 原敬』[[PHP研究所]]、2013年 |
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* 伊藤之雄『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、[[講談社選書メチエ |
* 伊藤之雄『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、[[講談社]]選書メチエ、2014年 |
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* 伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』[[講談社現代新書]]、2020年8月 |
* 伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』[[講談社現代新書]]、2020年8月 |
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[[Category:三叉学舎の塾生]] |
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[[Category:日本のカトリック教会の信者]] |
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[[Category:幕末盛岡藩の人物]] |
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[[Category:岩手県出身の人物]] |
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[[Category:正二位受位者]] |
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[[Category:大勲位菊花大綬章受章者]] |
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[[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]] |
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[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]] |
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[[Category:レジオンドヌール勲章オフィシエ受章者]] |
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[[Category:聖アンナ勲章受章者]] |
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[[Category:1856年生]] |
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