「合肥の戦い」を編集中
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張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが﹁将軍は我らを見棄てられるのですか﹂などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 遼左右麾圍,直前急擊,圍開,遼將麾下數十人得出,餘衆號呼曰‥﹁將軍棄我乎!﹂遼復還突圍,拔出餘衆。權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣,還修守備,衆心乃安,諸將咸服。</ref>。
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張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが﹁将軍は我らを見棄てられるのですか﹂などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 遼左右麾圍,直前急擊,圍開,遼將麾下數十人得出,餘衆號呼曰‥﹁將軍棄我乎!﹂遼復還突圍,拔出餘衆。權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣,還修守備,衆心乃安,諸將咸服。</ref>。
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その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、[[呂蒙]]・[[蔣欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残っているのみであり、一緒に食事をする。張遼はその様子を窺い知ると、楽進ら7000人と襲撃をかけ、孫権軍を幾重にも包囲した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 權守合肥十餘日,城不可拔,乃引退。遼率諸軍追擊,幾復獲權。</ref>。孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈︵3m︶余り撤去されていた。孫権の側仕えの[[谷利]]が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷47#孫權|author=三國志吳書·吳主傳|wslanguage=zh}} - 建安十九年5月の項と江表伝より、遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與淩統、甘寧等在津北爲魏將張遼所襲,統等以死扞權。權乘駿馬越津橋得去。︽江表傳︾曰‥權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超度。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直爲親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。</ref>。賀斉は3000人を率れて孫権を迎える。孫権は船に戻って諸将と会して食事を続けたが、賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は賀斉を慰め、二度とそんな危険なことをしないと誓った<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷60#賀齊|author=三國志 吴書·贺全吕周钟离传|wslanguage=zh}} - 二十年,從權征合肥。時城中出戰,徐盛被創失矛,齊引兵拒擊,得盛所失。[[江表伝]]より︽江表传︾曰‥权征合肥还,为张辽所掩袭於津北,几至危殆。齐时率三千兵在津南迎权。权既入大船,会诸将饮宴,齐下席涕泣而言曰‥“至尊人主,常当持重。今日之事,几至祸败,群下震怖,若无天地,原以此为终身诫。”权自前收其泪曰‥“大惭!谨以克心,非但书诸绅也。”</ref>。
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その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、[[呂蒙]]・[[蔣欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残っているのみであり、一緒に食事をする。張遼はその様子を窺い知ると、楽進ら7000人と襲撃をかけ、孫権軍を幾重にも包囲した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷17#張遼|author=三國志 魏書·張樂于張徐傳|wslanguage=zh}} - 權守合肥十餘日,城不可拔,乃引退。遼率諸軍追擊,幾復獲權。</ref>。孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈︵3m︶余り撤去されていた。孫権の側仕えの[[谷利]]が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷47#孫權|author=三國志吳書·吳主傳|wslanguage=zh}} - 建安十九年5月の項と江表伝より、遂征合肥。合肥未下,徹軍還。兵皆就路,權與淩統、甘寧等在津北爲魏將張遼所襲,統等以死扞權。權乘駿馬越津橋得去。︽江表傳︾曰‥權乘駿馬上津橋,橋南已見徹,丈餘無版。谷利在馬後,使權持鞍緩控,利於後著鞭,以助馬勢,遂得超度。權旣得免,即拜利都亭侯。谷利者,本左右給使也,以謹直爲親近監,性忠果亮烈,言不苟且,權愛信之。</ref>。賀斉は3000人を率れて孫権を迎える。孫権は船に戻って諸将と会して食事を続けたが、賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は賀斉を慰め、二度とそんな危険なことをしないと誓った<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷60#賀齊|author=三國志 吴書·贺全吕周钟离是鸳痞传|wslanguage=zh}} - 二十年,從權征合肥。時城中出戰,徐盛被創失矛,齊引兵拒擊,得盛所失。[[江表伝]]より︽江表传︾曰‥权征合肥还,为张辽所掩袭於津北,几至危殆。齐时率三千兵在津南迎权。权既入大船,会诸将饮宴,齐下席涕泣而言曰‥“至尊人主,常当持重。今日之事,几至祸败,群下震怖,若无天地,原以此为终身诫。”权自前收其泪曰‥“大惭!谨以克心,非但书诸绅也。”</ref>。
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凌統は孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。船に乗っていた孫権は凌統が無事帰還すると狂喜した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷55#凌統|author=三國志 吴書·贺全吕周钟离传|wslanguage=zh}} - 從往合肥,爲右部督。時權徹軍,前部已發,魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵,兵去已遠,勢不相及,統率親近三百人陷圍,扶扞權出。敵已毀橋,橋之屬者兩版,權策馬驅馳,統復還戰,左右盡死,身亦被創,所殺數十人,度權已免,乃還。橋敗路絕,統被甲潛行。權旣御船,見之驚喜。統痛親近無反者,悲不自勝。權引袂拭之,謂曰‥﹁公績,亡者已矣,苟使卿在,何患無人?﹂</ref>。
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凌統は孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。船に乗っていた孫権は凌統が無事帰還すると狂喜した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷55#凌統|author=三國志 吴書·贺全吕周钟离是鸳痞传|wslanguage=zh}} - 從往合肥,爲右部督。時權徹軍,前部已發,魏將張遼等奄至津北。權使追還前兵,兵去已遠,勢不相及,統率親近三百人陷圍,扶扞權出。敵已毀橋,橋之屬者兩版,權策馬驅馳,統復還戰,左右盡死,身亦被創,所殺數十人,度權已免,乃還。橋敗路絕,統被甲潛行。權旣御船,見之驚喜。統痛親近無反者,悲不自勝。權引袂拭之,謂曰‥﹁公績,亡者已矣,苟使卿在,何患無人?﹂</ref>。
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張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が最後衛の1000人の中でとても目立ったので、戦いの後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と孫権軍の降兵に問うと、自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷47#孫權|author=三國志吳書·吳主傳|wslanguage=zh}} - 建安十九年5月の項記載の[[献帝]]春秋抜粋より《獻帝春秋》曰:張遼問吳降人:「向有紫髥將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人答曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍嘆恨。</ref>。 |
張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が最後衛の1000人の中でとても目立ったので、戦いの後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と孫権軍の降兵に問うと、自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷47#孫權|author=三國志吳書·吳主傳|wslanguage=zh}} - 建安十九年5月の項記載の[[献帝]]春秋抜粋より《獻帝春秋》曰:張遼問吳降人:「向有紫髥將軍,長上短下,便馬善射,是誰?」降人答曰:「是孫會稽。」遼及樂進相遇,言不早知之,急追自得,舉軍嘆恨。</ref>。 |