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{{別人|和田浩}} |
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'''和田 弘'''(わだ ひろし、[[1931年]](昭和6年)[[2月15日]] - [[2004年]](平成16年)[[1月5日]])は、[[日本]]の[[歌手]]・[[ギタリスト]]。[[スティール・ギター]]奏者で[[和田弘とマヒナスターズ]]のリーダー。[[専修大学]]卒業。 |
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[[東京府]][[東京市]][[本郷区]](現[[東京都]][[文京区]][[本郷]])出身<ref name="Kyodo">[http://www.47news.jp/CN/200401/CN2004010501003623.html 和田弘氏死去 マヒナスターズのリーダー] 共同通信47News 2004年1月5日閲覧</ref>。父は製本業を営んでいた。 |
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幼い頃から[[オルガン]]に親しみ、銀座[[日本劇場]]で[[灰田晴彦]]とモアナ・グリー・クラブの演奏を聴いてスティール・ギターに傾倒。兄の同級生である[[浜口庫之助]]に弟子入りし、ハワイアンミュージシャンになる<ref name="Nikkan">[https://www.nikkansports.com/ns/general/personal/2004/pe-040105.html マヒナスターズの和田弘さんが急死] 日刊スポーツ 2004年1月5日閲覧</ref>。 |
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スチール[[ギター]]奏者で[[和田弘とマヒナスターズ]]の[[リーダー]]。最終学歴は[[専修大学]]卒業。 |
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[[1953年]]に結成された「[[山口銀次とマヒナスターズ]]」の[[メンバー]]として歌手[[デビュー]]。翌[[1954年]]、[[山口銀次]]の[[引退]]により後任のリーダーとなる。 |
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[[1950年]](昭和25年)4月、[[バッキー白片]]とアロハ・ハワイアンズにギタリストとして加入。 |
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[[1953年]](昭和28年)、山口銀次(ウクレレ)・鈴木揚介(ギター)とともにアロハ・ハワイアンズから独立し、「山口銀次とマヒナスターズ」を結成。歌手[[デビュー]]。 |
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2004年1月5日、[[不整脈]]により満72歳で逝去。 |
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[[1954年]](昭和29年)、山口の引退により後任のリーダーとなる。同年、嶋岡美穂子とクインシスターズのギタリストだった長沢途枝子と結婚。 |
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==関連項目== |
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*[[和田弘とマヒナスターズ]] |
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[[2004年]]︵平成16年︶[[1月5日]]、腎臓疾患の治療のために通院した[[神奈川県]][[川崎市]]内の病院にて、待ち時間に突如として[[不整脈]]を発症、直ちに治療が行われたが午前9時15分に死亡が確認された<ref name="Kyodo"/><ref name="Nikkan"/>。{{没年齢|1931|2|15|2004|1|5}}。
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== 評伝 == |
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* 伊東強『マヒナ主義 和田弘』(1995年、サンクリエイト) |
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== 脚注 == |
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===出典=== |
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{{Normdaten}} |
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[[Category:日本の男性作曲家]] |
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[[Category:日本の編曲家]] |
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[[Category:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントのアーティスト]] |
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2023年10月26日 (木) 17:47時点における最新版
和田 弘 | |
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生誕 | 1931年2月15日 |
出身地 | 日本 東京府東京市本郷区 |
死没 | 2004年1月5日(72歳没) |
学歴 | 専修大学卒業 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1953年 - 2004年 |
共同作業者 |
|
経歴[編集]
東京府東京市本郷区︵現東京都文京区本郷︶出身[1]。父は製本業を営んでいた。 幼い頃からオルガンに親しみ、銀座日本劇場で灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブの演奏を聴いてスティール・ギターに傾倒。兄の同級生である浜口庫之助に弟子入りし、ハワイアンミュージシャンになる[2]。 1949年︵昭和24年︶4月、専修大学に入学。在学中にリリー・アイランダースを結成し、自らリーダーを務めた。 1950年︵昭和25年︶4月、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズにギタリストとして加入。 1953年︵昭和28年︶、山口銀次(ウクレレ)・鈴木揚介(ギター)とともにアロハ・ハワイアンズから独立し、﹁山口銀次とマヒナスターズ﹂を結成。歌手デビュー。 1954年︵昭和29年︶、山口の引退により後任のリーダーとなる。同年、嶋岡美穂子とクインシスターズのギタリストだった長沢途枝子と結婚。 1957年︵昭和32年︶、日本初のコーラスグループとしてビクター・レコードよりデビュー。その後﹁泣かないで﹂、﹁夜霧の空の終エア着ータ港ーミナル﹂、﹁グッド・ナイト﹂、﹁誰よりも君を愛す﹂、﹁お百度こいさん﹂、﹁北上夜曲﹂、﹁寒い朝﹂、﹁島のブルース﹂、﹁お座敷小唄﹂、﹁愛して愛して愛しちゃったのよ﹂など数多くのヒット曲を世に送り出す。 歌の他、﹁ウナ・セラ・ディ東京﹂和田弘とマヒナスターズバージョンなど一部の楽曲の編曲も行っていた。 2004年︵平成16年︶1月5日、腎臓疾患の治療のために通院した神奈川県川崎市内の病院にて、待ち時間に突如として不整脈を発症、直ちに治療が行われたが午前9時15分に死亡が確認された[1][2]。72歳没。エピソード[編集]
ビートたけしが、1994年︵平成6年︶バイク事故から復帰した際、﹁顔面マヒナスターズ﹂と一声を発したが、これに対し、文句を言うどころか、逆に和田は﹁マヒナスターズ﹂加入を歓迎するような発言を行った。評伝[編集]
- 伊東強『マヒナ主義 和田弘』(1995年、サンクリエイト)
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ a b 和田弘氏死去 マヒナスターズのリーダー 共同通信47News 2004年1月5日閲覧
- ^ a b マヒナスターズの和田弘さんが急死 日刊スポーツ 2004年1月5日閲覧