「坂口安吾」を編集中
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=== 生い立ち === |
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1906年︵明治39年︶10月20日、[[新潟県]][[新潟市]]西大畑通28番戸︵現・[[中央区 (新潟市)|中央区]][[西大畑町]]579番地︶に、[[憲政本党]]所属の[[衆議院|衆議院議員]]の父・[[坂口仁一郎]]︵当時45歳︶、母・アサ︵当時37歳︶の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる<ref name="album"/><ref name="omina"/>。本名﹁炳五﹂︵へいご︶の由来は、﹁[[丙午]]﹂年生まれの﹁五男﹂に因んだもの。血液型はA型。本籍である新潟県[[中蒲原郡]][[阿賀浦村]]大字[[大安寺 (新潟市)|大安寺]]︵現・新潟市[[秋葉区]]大安寺︶の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔︵似た名前の二名 |
1906年(明治39年)10月20日、[[新潟県]][[新潟市]]西大畑通28番戸(現・[[中央区 (新潟市)|中央区]][[西大畑町]]579番地)に、[[憲政本党]]所属の[[衆議院|衆議院議員]]の父・[[坂口仁一郎]](当時45歳)、母・アサ(当時37歳)の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる<ref name="album"/><ref name="omina"/>。本名「炳五」(へいご)の由来は、「[[丙午]]」年生まれの「五男」に因んだもの。血液型はA型。本籍である新潟県[[中蒲原郡]][[阿賀浦村]]大字[[大安寺 (新潟市)|大安寺]](現・新潟市[[秋葉区]]大安寺)の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔(似た名前の二名・[[坂口仙徳]]と[[阪口仙得]]、いずれの末かが不明瞭)という代々の旧家で、「坂口家の[[小判]]を積み上げれば[[五頭山]]の嶺までとどき、[[阿賀野川]]の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われたほどの富豪であり、遠祖・治右衛門(のち甚兵衛)は[[九谷焼]]の陶工であった<ref name="album"/><ref name="nenpukado">「年譜」(文庫版『白痴・二流の人』角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)</ref>。しかし祖父・得七の[[投機]]の失敗により明治以後に没落した。父・仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、炳五の生まれた頃、家は傾きかけていた。邸内の広さは520[[坪]]で、松林の巨木に囲まれた邸宅は母屋と離れを合わせ90坪もある寺のような建物で、裏庭の松林を抜けると[[砂丘]]が広がり、[[日本海]]を見渡せた<ref name="album"/><ref name="ishiomo">坂口安吾「石の思ひ」『光』1946年11月</ref>。祖父・得七は、炳五誕生の10日後、79歳で死去した。 |
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父・仁一郎は、﹁阪口五峰﹂﹁七松山人﹂の[[号 (称号)|号]]で[[漢詩]]集の著書﹃北越詩話﹄︵1918-1919年︶、﹃舟江雑誌﹄のある[[漢詩人]]でもあり︵[[森春濤]]の門下︶、[[市島春城]]︵春城︶、[[会津八一]]と親交があった。新潟米穀株式会社取引所理事長、[[新潟新聞]]社︵現・[[新潟日報社]]︶社長なども務め、衆議院議員の[[政治家]]としては、[[大隈重信]]の下で[[護憲運動|憲政擁護]]に尽力し、[[若槻禮次郎]]、[[加藤高明]]、[[犬養毅]]︵木堂︶、[[尾崎行雄]]︵咢堂︶らと政友であった<ref name="iwanami">﹁年譜﹂︵文庫版﹃[[風と光と二十の私と]]・いずこへ 他十六篇﹄[[岩波文庫]]、2008年︶</ref>。安吾は父について、﹁三流の政事家であった﹂としている<ref>[[石川淳]]﹃諸国畸人伝﹄︵[[筑摩書房]]、1957年、[[中公文庫]]、2014年︶</ref>。10歳年上の長兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟︵現・[[新潟放送]]︶の社長などを務めた。母・アサの実家は、新潟県[[中蒲原郡]][[五泉町]]大字五泉︵現・[[五泉市]]本町︶の大[[地主]]・吉田家であった。吉田一族は皆︿[[ユダヤ人|ユダヤ]]的な鷲鼻﹀を持ち、特に母・アサの兄︵[[伯父]]︶の眼は青く、︿まつたくユダヤの顔で、[[日本民族]]の何物にも似てゐなかつた﹀という<ref name="ishiomo"/>。アサは仁一郎の後妻で、傾いた家計を支えるのに苦労していた。炳五は、5歳の時に生れた[[妹]]・千鶴に母親を奪われたという思いが強く、気丈でヒステリックな母から愛されなかったという孤独を抱き、見知らぬ街を彷徨うこともあった<ref name="omina">坂口安吾﹁をみな﹂︵﹃[[作品 (同人誌)|作品]]﹄1935年12月号に掲載︶</ref><ref name="ishiomo"/>。炳五は、自分ばかり憎み叱責する母に対する反抗心を増し、砂丘に寝転んで光と小石の風景を眺めながら、海と空と風の中にふるさとと愛を感じ、その中にふるさとの母を求めていた<ref name="ishiomo"/>。
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父・仁一郎は、﹁阪口五峰﹂﹁七松山人﹂の[[号 (称号)|号]]で[[漢詩]]集の著書﹃北越詩話﹄︵1918-1919年︶、﹃舟江雑誌﹄のある[[漢詩人]]でもあり︵[[森春濤]]の門下︶、[[市島春城]]︵春城︶、[[会津八一]]と親交があった。新潟米穀株式会社取引所理事長、[[新潟新聞]]社︵現・[[新潟日報社]]︶社長なども務め、衆議院議員の[[政治家]]としては、[[大隈重信]]の下で[[護憲運動|憲政擁護]]に尽力し、[[若槻禮次郎]]、[[加藤高明]]、[[犬養毅]]︵木堂︶、[[尾崎行雄]]︵咢堂︶らと政友であった<ref name="iwanami">﹁年譜﹂︵文庫版﹃[[風と光と二十の私と]]・いずこへ 他十六篇﹄[[岩波文庫]]、2008年︶</ref>。安吾は父について、﹁三流の政事家であった﹂としている<ref>[[石川淳]]﹃諸国畸人伝﹄︵[[筑摩書房]]、1957年、[[中公文庫]]、2014年︶</ref>。10歳年上の長兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟︵現・[[新潟放送]]︶の社長などを務めた。母・アサの実家は、新潟県[[中蒲原郡]][[五泉町]]大字五泉︵現・[[五泉市]]本町︶の大[[地主]]・吉田家であった。吉田一族は皆︿[[ユダヤ人|ユダヤ]]的な鷲鼻﹀を持ち、特に母・アサの兄︵[[伯父]]︶の眼は青く、︿まつたくユダヤの顔で、[[日本民族]]の何物にも似てゐなかつた﹀という<ref name="ishiomo"/>。アサは仁一郎の後妻で、傾いた家計を支えるのに苦労していた。炳五は、5歳の時に生れた[[妹]]・千鶴に母親を奪われたという思いが強く、気丈でヒステリックな母から愛されなかったという孤独を抱き、見知らぬ街を彷徨うこともあった<ref name="omina">坂口安吾﹁をみな﹂︵﹃[[作品 (同人誌)|作品]]﹄1935年12月号に掲載︶</ref><ref name="ishiomo"/>。炳五は、自分ばかり憎み叱責する母に対する反抗心を増し、砂丘に寝転んで光と小石の風景を眺めながら、海と空と風の中にふるさとと愛を感じ、その中にふるさとの母を求めていた<ref name="ishiomo"/>。
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